エボラ出血熱は本当に恐ろしい。私も怖い。おそらくいま世界中の医療従事者が内なる心の中で、エボラ出血熱への恐怖と戦っていると思う。
古来より、医療従事者は患者から病気をもらい、流行病で死ぬものだった。野口英世は黄熱病で死に、ダミアン神父はハンセン病で死んだ。感染症のリスクが高いからこそ、医療従事者には高い賃金と社会的地位が保証されていると言っても過言ではないと思う。それなのに、ねじ子はそんな危険をすっかり忘れていた。清潔な日本の、清潔な病院の中でぬくぬくと診療とかしちゃって、世界一健康で世界一安全な環境にいるかのような錯覚をしていた。「医者は患者から病気をもらって死ぬ」という基本的事実をすっかり忘れていたのである。
エボラ出血熱には今のところ治療法がない。ワクチンもない。進化したウィルスの潜伏期は21日と格段に長くなり、患者を完全に隔離するのがむずかしくなった。致死率は今のところ70%もある。アメリカですら医療従事者への二次感染を防げなかった。個人の権利とグローバリズムが発展した現代において、潜伏期の患者さんが日本に入ってくるのを止めることはできない(「隔離」は個人の権利を侵害してでも公共の福祉を優先するものであり、医者ではなく政治家が決めるべき範疇の仕事だ。そして多くの政治家がその判断をまだ保留にしている)。防護服など誰も着ていない普通の病院の外来に、体中がパンパンに腫れたアフリカ帰りの患者さんが無言で現れても、何の不思議もないし、何の文句も言えない。怖い。生命の根元的恐怖を感じる。ねじ子は医者という仕事の困難さについて、しばし考え込んでしまった。「私がエボラで死ぬのはしょうがないけど、家族にうつすのだけは耐えられないなぁ」とか、「子供だけは救ってあげたいなぁ」とか。
数日考えた結果、私はいつも通り医者の仕事をしている。そうするしかないのだと思う。アフリカ帰りの高熱の患者さんが突如私の目の前に現れて、防護服など着ていない私の体に盛大に血便をぶちまけたとしても、私は医者という仕事を愛しているし、結局のところこの世のすべてを愛している。(2014/11/07)
『人が病気で死ぬワケを考えてみた』という本が一般書で発売になります。2014年11月14日です。
詳細はこちらのエントリ参照。
ハレーションサマー/ココナッツ娘
Berryz工房version。子供が無理に背伸びしているミスマッチ感を楽しめる方にはオススメ。もちろん私は大好き。
というわけでコミケお疲れ様でした!!来てくださった皆さま、本当にありがとうございました!暑い中をいろんな方が来てくださったようで、恐縮しております。ねじ子は今日もBerryz工房の珠玉の夏曲を聴きながら仕事しています。
次は冬のコミケに参加予定です。12/30です。今年は大晦日じゃないよ!と、いうことは!ハロプロ楽曲大賞にも!ハロプロカウントダウンにも!い!け!る!ぞ!やったあ!今年の夏はコミケの締切のせいで夏のハロコンに参戦できず、結果Berryz工房活動停止の報告も鈴木香音ちゃんセンターの『一億三千万総ダイエット王国』も聴き逃し、モーニング娘。と℃-uteのめざましライブにも行けず、さらにJuice=Juiceの発売記念ミニライブにも一回も行けないというハロヲタにあるまじき醜態を晒してしまったので、冬はきっちりとオタク活動を充実させたいです。あ、違った。原稿を計画的に進めたいです。
2020年の東京オリンピック開催が決定したため、いつまでビックサイトでコミケが開催できるかわからなくなってしまいましたね。これからどうなるんだろう。少なくともビッグサイトでコミケが開かれている間はコミケに出続けたいと思っております。(2014/8/21)
8月17日(日)東2 T-25b ねじ子アマ
夏のコミケに出ます。
今回の新刊は『ドキッ!こういうのが死因なの』です。(116ページ、価格未定)

「人はなぜ病気で死ぬのか」について書きました。感染症・がん・生活習慣病の「3大死因」について、その原因や機序を「やや一般向け」に書いたものです。医学レクチャーみたいな感じかな?雑誌ではレクチャー的な記事はちょこちょこ書いてきましたが、本にまとめたのはは今回が初めてです。ほぼ全ページ手書きなので、紙面のノリは手技図譜に近いように思います。
実は今回は搬入部数が少なめです。というのも、今年度中に主婦と生活社さんから一般書籍化される可能性が高いからです。内容はほぼ同じ(の予定)ですので、同人誌を買えなくってもたぶんきっと大丈夫です。あ、でもこの表紙とこのタイトルは同人誌だけになる予感がします。えり~な可愛かったよなぁ、なんで急に辞めちゃったんだろう。
それでは皆様、熱中症に気をつけてまいりましょう。(ねじ子は当日はいない予定です)
既刊も少しですが持っていきます。商業誌化しちゃった同人誌をメンテナンスし続けるのには限界があるので、「商業誌化しちゃった同人誌」は在庫限りで販売終了とする方針です。
Berryz工房が来春をもって無期限活動停止というニュースを聞いて脳が無期限活動停止したねじ子です。こんにちは。夏のコミケの締切直前なのに、わたしはどうすることもできず、ただタワーレコードの嶺脇社長がTwitterで淡々と貼っているYoutubeの動画を順番に見ています。きっと社長も茫然自失状態なんだろうな。社長はさすがに趣味がいいですね、わたしのツボを突く動画ばかりです。あー、どうしよう。これは生きていけないわ。死んでいいかな?いや、だめだよね。
Berryz工房には、ずっとふざけていて欲しかった。いや、ずっとふざけていてくれていると思っていた。終身雇用が約束された公務員のように、福利厚生が充実した環境でゆるゆると活動し続けるものだと思ってた。そしてそれが唯一許される女性アイドルグループに、Berryz工房は成長していた。おこがましいけれど、我々ファンもそれだけの資金と環境を十分に与えているつもりだった。誰かが多少休んでも結婚しても妊娠しても、すべてを許容し、何かあればすぐに現場に駆けつけて全力でコールする屈強なファンを10年かけて作り上げたのだ。Berryz工房だけは、メンバーが変わらずとも永遠に続けることができると思っていた。その奇妙な安心感は、労働する少女たちの権利をないがしろにした昨今の女性アイドル界へのアンチテーゼにもなっていた。危険をかえりみずに握手をさせられ、服を脱がされ、ネットで罵詈雑言を浴びせられ、恋愛するという当然の権利を迫害され、精神をもちくずせばやすやすとクビになり、薄給で消費されて消えていく女工哀史のような存在ではなく、少女たちもきちんと成長して歌と踊りを安定して届けるプロ集団になりうると、Berryz工房は証明していた。それなのに。

あー。とりあえず活動停止の理由も、メンバーの今後も全然わからないので、次報を待つしかないよね。待てるかな。続報が来るまで死んでていいかな?いや、だめだよね。わかってるよ。でもさ、『Berryz工房なしでは生きていけない』って自分たちで散々言っておいて、Berryz工房がいなくなったらわたしたちどう生きていけばいいのよ。困ったな。『2004年3月3日 8人の幼い魔女達が、一生解けない魔法をかけた』んだよね?魔法かかっちゃってるよ、わたし。誰か解いてくれるっていうのよ。あなたたちにしか解けない魔法なんだよ。頼むから最後のコンサートは希望者全員が入れる大きい会場でやってくださいね。お願いよ。(2014/8/3)
夏のコミケに出ます。手技ではありませんが、たぶん何か新刊があるはず。
8月17日(日)東2 T-25b ねじ子アマ
道重さゆみは特別だったと思う。彼女ほど「100%かわいい女の子」とはどういうことかを自分の頭で必死考え、長期に渡って実行している人間はいない。彼女らの客である現代日本の独身男性にとって「最も理想的な女の子」とはいったい何か。100%かわいい女の子の条件を、自分の頭できっちりと考え、自分なりの偶像を11年間完璧に作り続けた。もちろん、それは彼女が生まれ持った美貌に加えて、緻密な戦略を立てられる賢い頭があるゆえに実現可能なことだ。世の中のたいていの女性はそこまでの美人に生まれやしないから、本気の直球勝負ができない。「こんな女の子も面白いでしょ?」「こんな女の子もありでしょ?」という変化球に逃げてしまう。でも、さゆは常にど真ん中ストレート。豪速球を全力で投げ続けている。つんく♂はオーディション時点で道重さゆみのことを「この子自身が作品。自分にとっても師匠」と断言していたけれども、その通りだと思う。
「最も理想的な女の子」を具体的に言えばそれは太らないことであり、かつ痩せすぎないことであり、黒髪ストレートロングで一切染色しないことであり、白い肌とキラキラした黒目をキープし続けることであり、日焼けしないことであり、肌を露出しないことであり、かつ必要な場面ではきちんと水着になることであり、異性の気配を徹底的に排除することであり、でも百合要素は適度に匂わせ、少女性と処女性(※決して本当に処女である必要はない)を体現することであり、私服に至るまで可愛いピンクの服を選ぶことであり、将来の仕事の幅を狭めるとわかっていてもキスシーンを拒むことであり、それをラジオとブログでは「ここだけの本音」として語ってチラリと素をのぞかせることであり、一定のファンをえこひいきしないことであり、どんなにひどい外見のファンをも決して差別しないことであり、かつ太い客はきっちり繋ぎ止め、ネットパトロールを欠かさないことで自らのイメージを細部までコントロールすることであり、何よりもモーニング娘。とそのファンが大切だと公言することであり、歌が下手でも努力する姿勢をきちんとみせることであり、かつそこまで高いスキルにはこだわらず(※歌の上手い下手はアイドルの人気を左右しない)、自分が守ってあげたいと思わせるような愛らしさをキープし、かつ誰のものにもならないことである。
これらはすべて、ひどくくだらないことだ。歴史の教科書には決して載らない種類の茶番である。こんなくだらないことにいつまでも若い女の子達をかかずりあわせてはいけない。彼女たちは人間であり、憲法でも定められた幸福になる権利がある。自由に恋愛する権利も、結婚する権利も、子供を産む権利もある。当たり前だ。ハロプロの女の子には全員幸せになってほしい。しかし、それらの権利と「商業アイドルである」という状態は、残念ながら相反することが多い。最も金を出す男性ファンは、そういう女性の現実主義に基づいた行動を一切望まないのだ。これはもう残念ながら「望まない」の一言に尽きる。私は女なのでそういう彼らの偏狭さにため息が出ることも多いが、どうにもならない。私は少数派の顧客であってメインスポンサーではないからだ。現実として、女性アイドルが自らの現実的幸福をつかみたいと願うならば、自らが作り上げた「異性のための完璧な女神像」をどこかで降りなければいけない。
それでもなんとなく、道重さゆみは一生そこから降りないような気がしていた。さゆだけは、おばあちゃんになっても「100%かわいい女の子」の新しい姿を作り続けてくれるような気がしていた。
「異性のための完璧な女神」とまではいかなくても、女に生まれた人間はある程度、「女らしい演技」を多かれ少なかれ要求される場面に立ち会う。アイドルや客商売の皆さんはその演技の得手不得手が如実に収入にあらわれるだろう。「いい男と結婚する」ことで人生の価値が決まると考えているタイプの女性にとっても、「いい女」をどの程度演じられるかは極めて重要な問題だ。そして、完璧な女神を演じ続けるのは精神的にとてもきつい。だって現実はトイレにも行くしウンコもするしニキビだってできるし鼻毛だって出るし、月経時は血まみれになるしイライラするし腹も痛くなるし、化粧した顔とスッピンは全然違うし、イケメン大好きだし、お金持ち大好きだし、セックスだってしたいし、特定のステディな誰かに守られると楽だし、子供もほしいし、お金もほしいし洋服もほしいし、髪の毛だってお化粧だっていろいろ冒険してみたいし、お菓子もいっぱい食べたいけど太りたくないし、寄る年波も感じるし、本当は自分だけが得すれば他人なんてどうだっていいし、頭もそれほどよくないし、努力はたいてい報われないのである。それでも、トイレすら行かなそうな「お人形さん」を求められるのだ。ネットとスマホが普及した現在では相互監視がさらに厳しくなり、24時間休みなくアイドルを演じ続けなければならない。きつい。普通は3年が限界である。でも道重さゆみは11年間、モーニング娘。が売れていた時期も落ちぶれた時期も再ブレイクと言われる今も、ずっと完璧に、まるで素で楽しんでいるかのように「100%かわいい女の子」であり続けている。バラエティ番組に一人で出るときは「毒舌ナルシスト」という変化球を意図して投げて知名度を上げ、かつグループのリーダーになればそれを封印して「滅私奉公」を演出することさえも、できる。あまりに確信的だ。自らの手で自在に偶像を操っている。その全知全能ぶりに神を見る人も多かった。彼女の作った「かわいいアイドル・道重さゆみ」はその手練手管の完璧さから、もはや「異性の奴隷」を飛び越えて同性をも納得させる100%かわいい女の子アイコンになった。
だからこそ道重さゆみは同業者の女性から羨望の目で見られ、憧憬の対象となり、神格化された。女性が女性であるがゆえに見舞われる様々なストレスやトラブルに疲労困憊しても、心の中の神棚に彼女をそっと据えて「さゆも頑張ってるんだから、私も頑張ろう」と思いながら毎日を乗り越えていた女性はそこそこ多かったと思う。
彼女がモーニング娘。をやめる、というのは、女神が人間になる宣言をするに等しい。人間宣言である。昭和天皇の人間宣言を、当時の多くの日本人はそう重く受け止めていなかったと聞く。「何を当たり前のことを言っているのか」とさえ、思っていたという。でも三島由紀夫はおおいに混乱していた。私も、さゆの人間宣言におおいに混乱している。「さゆってば最近ちょっと神格化されすぎてるよね~」と心の中で揶揄していた私でさえ、混乱している。
「かわいいままで卒業したい」という彼女の卒業理由はこれまた彼女のキャラクターとしてパーフェクトな回答であり、彼女からしか出てこない言葉だ。「無理矢理モーニング娘。を追い出されるのではなく、彼女が自ら去っていく決意をしたのだろう」とファンにもよくわかるコメントである。彼女が女神であるならば、彼女の言葉は天の声であるはずで、われわれ下々の者に許されるのはただ天の声を真摯に受けとめることだけ、のはずである。なのに私は混乱している。この文章も、冷静な他人から見たらひどく気持ち悪いものに仕上がってるとわかっているのに止められない。どうしようもない。彼女は彼女の親友の亀井絵里と同じように、私たちの前からいなくなってしまうのだろうか?本当に?フクちゃんや大森靖子さんは大丈夫なの?
混乱のまま、きっと私はいくつものコンサートに足を運び、『野菜一日これ一本』を象のように飲みながらも卒業を受け入れ、次のメンバーに思いを馳せていくのだろう。あー、うー、そうだな…。モーニング娘。12期は研修生ならリカコと船木ちゃんと大浦へろへろちゃん、さらにこのたびブログを開設した後藤真希ちゃんの電撃復帰で計4人がいいかな……。ごっちんのためならいつでも椅子あけて待ってるよぉ……。移動中はずーっとモンハン4Gやっててくれてかまわないからさぁ……。あ、そこ矢口のための席じゃないからね、君は座らないでくれる?(2014/5/24)
道重さゆみがモーニング娘。を卒業する。来るべき時が来た、と思う。長年ハロプロを見ていれば、これはむしろハロー!プロジェクト全体にとって「よい知らせ」であることもわかっている。さゆが卒業を発表できるということは、モーニング娘。12期オーディションに将来有望な少女が内定したということであり、つんく♂の病状に目処が立ったということであり、現在在籍している娘。メンバーの将来性にある程度確信を持てた、ということである。どれも素晴らしいことだ。わかっている。そう、これは予定されている通りの流れであり、あるべきものがあるべき場所にきっちりと収まっていくのを我々は静かに見守っているだけなのだ。わかっている。卒業と加入を断続的に行い続けるのがモーニング娘。だ。私もそのシステムを心の底から愛している。期間が限定されているからこそ、輝かしい未来を持った美少女たちが、我々のくだらない妄想茶番劇にお付き合いしてくれるのだ。わかってる。
でも、私の胸はひどく重く苦しい。どうしていいかわからない。鉛を無理やり飲まされたような、腹にずしんと重く沈んだ物体を消化することができない。実験室のラットのように意味なく部屋中を歩き回ってしまう。気を抜くと「さゆ、ちゃゆ、ちゃゆうううう……。やめないで、おねがいだよ、やめないでよ、私をおいていかないでよ。私は明日から一体どうして生きていけばいいんだよ。私にはまだまださゆが必要なんだよ。あなたのいるモーニング娘。を、あなたの歌を、あなたという作品を、まだまだ見ていたいんだよ」と呟きながら床に崩れ落ちてしまう。この私が、福田明日香から始まるすべてのハロメンの卒業と脱退を見てきたこの私が、さゆの卒業発表動画をいまだに見ることができない。ニュースを再生できない。怖い。怖いんだよ。さゆの美しい唇から「モーニング娘。を卒業する」という言葉が出てくるのを見たくない。それを聞いて崩れ落ちるであろうフクちゃんや工藤を見たくない。あ、でも鞘師が嘘泣きしてくれてたらそれはすげぇ見たいけど。4月の末日に雨のサンシャイン大通りを「さゆ、ちゃゆ、ちゃゆうううううううううう。もっとさゆを生で見ておくんだった。私にはいくらでもその機会があったのに。なんでもっと現場に行かなかったんだ。私は馬鹿だ。そうだ、もう死のう。いやここで死んでも意味はないな。今からでも、できるだけ多くのコンサートに行って、さゆへの愛を叫ぼう。そして死のう。いや違った、これからもフクちゃんや香音や鞘師や生田を見守ってあげないと。あぁ、みんな愛しいよ。でも今はこのまま足元から水たまりに溶けて消えてなくなっちゃいたい気分だよ」と独りごちながら下を向いて歩くおばちゃんを目撃した方がいたら、それは私です。あまりに強い愛と、愛する対象から解離した自らの現実を自覚したとき、人は死を願う。愛情や萌えって実はとても死に近い感情だと思う。とても好きな人と安全な環境で一度限りのセックスをしたあととか、コミケで特殊な趣味の本を大量に買いあさったあととか、最高に幸せだけど最高に死にたくなるもんな。ねじ子はまた一つ大人になったよ。
患者さんが死を迎える際の対応は「終末期医療」と呼ばれ、臨床医療の一大ジャンルである。末期がんなどで「ある程度」事前に予告されている死を患者さんが受け入れていくプロセスとして、5つの段階があると言われている。大げさに聞こえるかもしれないが、私は今まさにそのまっただ中にいる。
第1段階 は「否認」。大きな衝撃をうけて現実を否定する。「さゆが卒業?そんなはずはない」と否定し、自らにとって都合の悪い情報を受け入れなくなる。今の私だ。
次に第2段階 「怒り」が来る。「どうしてさゆはこんなに早く卒業してしまうんだ。モーニング娘。のことが大事じゃないのか。あんなにグループへの愛を語っていたのに、あれはすべて嘘だったのか。さゆ本人の意思であったとしても、周囲は全力で止めるべきだった。今さゆを卒業させるなんて、つんく♂と糞事務所はいったい何を考えているんだ」というような、筋違いの怒りを筋違いの方向にぶつける。
次に第3段階 「取引」。「これからはCDもちゃんと買うし、グッズも買うし、コンサートも皆勤するし、署名活動でも何でもするから、さゆの卒業だけは取り消してくださいお願いします糞事務所様」というような取引を心の中で試みる。絶対的存在との心の中での対話である。普通は神様や仏様との取引だけれど、この場合はさゆそのものやつんく♂や事務所になる。
次に第4段階 「抑うつ」。取引はたいてい徒労に終わり、運命は動かない。絶望して無気力になり、何も手につかなくなる。
そして第4段階と平行して徐々に第5段階の「受容」がやってきて、静かに運命を受け入れる心情になっていく。私もきっと、最終的には安らかにさゆの卒業を受け入れる、はずである。突然すべてを悟ったように解脱したり(アイドルヲタ卒業)、一縷の希望にすがったり(そうだ!きっとプラチナモーニング娘。が結成されて、さゆはそこに入るんだ!)、勝手に輪廻転生する(若いメンバーに乗り換える。これを業界用語で「推し変」と呼ぶ)人もいるだろう。
私はまだまだ受容の第1段階である。第5段階まで遠いなぁ。どうしよ。「さゆの姿をひと目見れば気持ちが落ち着くかも…」と思ったけれど、ゴールデンウィークのモーニング娘。中野サンプラザ公演はまったくチケットが取れなかった。それならばと、おへその国の入国ビザことハロプロ研修生実力診断テストのチケットを取ろうと思ったら、そちらも完売だし。嬉しいけど、困るよ。ガンガン当日券が出ていた頃の中野サンプラザが恋しい。
やはりここはオタクらしく、文章を書くことで気持ちを昇華するべきなのだと思う。次のエントリーではリハビリを兼ねて、道重さゆみの天才性と特別性について書こうと思います。(2014/5/8)
『ねじ子とパン太郎のモニター心電図』が2014年3月23日に発売になりました。
『初心者のためのモニター心電図』を大幅に改訂したものです。前作『初心者のためのモニター心電図』はイラスト提供のみでしたが、今回はそこそこ文章も書いて、絵も描いて、編集にも参加したので、共著扱いになっています。基本的にはナースさんのための、白衣のポケットに入れて持ち歩く本です。
ねじ子オススメは「心筋梗塞の部位診断」のところです。他の本にはない内容になっていると思います。心筋梗塞が起こったときに、心電図を見て「心臓のどこらへんが死んでいるか?」、さらに発展して「では心臓の血管のどこらへんがつまったのだろうか?」を考えるために必要なイメージをたくさん盛り込みました。本書は基本的にナースさんのための本だと述べましたが、PART 1の「心電図のおおざっぱな読み方」およびPART 3の「心筋梗塞部位診断」は、医学生や研修医にも十分役立つ内容になっていると思います。
内容変更にあわせてタイトルも変わりました。不肖ねじ子も嬉々として企画会議にタイトル案を出しまくりました。『ミニマムモニター心電図(略してミニモニ)』、『プッチモニター心電図(略してプッチモニ)』、『ハロー!モニター心電図(略してハロモニ)』、『ドキッ!こういうのがモニター心電図なの?』、『一億三千万総モニター心電図王国』の計5つ。もちろんすべて軽く一蹴され、シンプルかつ無難でわかりやすい『ねじ子とパン太郎のモニター心電図』というタイトルに落ち着いています。世の中って世知辛いですな。いや、これが普通なのか。こういうタイトルが平気で通るハロプロの企画会議がどうかしているのか。アバンギャルドでうらやましい。
装丁・デザインは、小さい本に付箋を貼ったイメージを目指しました。付箋に貼ってある番号をたどって読めば、ゲームブックのように様々なストーリー分岐を楽しむことができます。もちろん頭から順に読んでいってもかまいません。とっても可愛い装丁をして下さったデザイナーの宮内佑さんに感謝です。
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