おそらく世界中の医療従事者がそうであるように、2020年3月は私の医者人生の中で最もつらい1ヶ月でした。この過酷さはしばらく継続するのでしょう。ひょっとしたら、さらなる波が待っているのかもしれません。
欧米各国の医療従事者への感謝の拍手動画を見ながら私は今日一人で泣きました。
日本国内の拍手の動画は見つけられませんでした。そのかわりに、コロナ患者の出た病院や医療従事者やその子供への差別や偏見の記事は随所で散見されています。
私も夫も医者で、子供は小学生です。彼にはこの1ヶ月たくさんの苦労をかけました。彼は一言も文句を言わず、毎日変わる私達の予定にあわせてくれました。私の自慢の息子です。
日本において3月は年度末、4月は年度始まりです。新入や人事異動は予定通りやってきます。それらを決めた当時とは病院の様相が大きく変わってしまったにも関わらず。
感染の渦中にいる病院に入っていく人もいれば、出る人もいるでしょう。みんな様々な思いがあると思います。
正直に言うと私は少し疲れています。頑張りすぎてはいけないなぁと思います。
医療者の皆さん、みなで健康で、生き延びましょう。
来年はお花見ができたらいいな。
ディズニーランドにも行きたいな。
モーニング娘。のライブにも行きたいな。
(2020/03/24)
4位 高輪ゲートウェイ駅ができる頃には / CHICA#TETSU
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明らかに松任谷由実『中央フリーウェイ』のオマージュである。私も若い頃、中央自動車道を走りながら「右に見える競馬場、左はビール工場~♪ってここのことか!なるほど!」と思った経験がある。しかも困ったことに恋人と乗っている車の中でそう思ったりするのである。おそらく現在の若い恋人たちも、電車に乗りながらこの曲の歌詞のように「右に泉岳寺、左に巨大な折り紙の屋根が確かにある!」と思うのだろう。彼らは車に乗らない、車を持っていないから。電車移動である。きっと電車から車窓を眺めてそう思う。そんな時代性を歌詞の中に封じ込めることも含めて、よくできた歌だと思う。この曲の賞味期限が非常に短いことを私は少し危惧していたのだが、そんなことはまったくなかった。高輪ゲートウェイ駅ができた後にも「高輪ゲートウェイ駅ができる前の空気」を思い出すためのトリガーにこの曲はなる。それだけの力がある。
5位 全然起き上がれないSUNDAY / アンジュルム
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なんだこれ。すごいな。暗い。暗すぎる。土曜日の夜に失恋した、または失恋よりももっとひどい目にあった女性の日曜日の朝のお話。土曜の夜にいったい何があったの?
さっき「2019年は鞘師里保と工藤遥と田村芽実と和田彩花の年だった」と書いたように、今年は若いうちにハロプロを卒業したメンバーによる新しい挑戦が目立つ年だった。とすると現役ハロプロメンバーの中にも「私も早く次のチャレンジがしたい」「ここに長くいてはいけない」と感じる子が増えてくる。これは必然である。アンジュルムは和田彩花ちゃんの卒業以降、メンバーの卒業ラッシュが続いている。どの子も次の仕事や人生のステップを考え、25歳になる前に自分の意志で卒業していく子ばかりである。
カントリー・ガールズの意味不明な解体劇は「同じことを次は自分のグループにしてくるかもしれない」という不信感と恐怖心を娘。以外のすべてのメンバーとファンに植え付けた。「信用できない」「こんな恐ろしい場所に長くはいられない」と感じるのも当然だろう。モーニング娘。以外のグループのメンバーが「私はここにいてもこれ以上のチャンスを与えられない」と思ってしまうのもしかたない。だって、そうやってグループごとに扱いの差や、チャンスの優劣を付けてきたのは他ならぬ事務所なのだから。25歳以降の人生の指針を一切示さず、その後の人生を自分で切り開くように仕向けてきたのも事務所である。思春期の女子の自意識を満足させるだけの活動を現状でさせてあげられてないのならば、彼女らがハロプロという組織から飛び出していくのを止めることはできない。
彼女らの憧れでもあったBerryz工房と℃-uteの、25歳までがっつりアイドル活動を行ったメンバーの現状、そして早めに卒業した鞘師や田村芽実ちゃんや工藤の活躍を見ると、「定年までここにいてはいけない」「早く次のステップに進まないとその後の芸能活動のチャンスがなくなる」と若いメンバーが思うのもわかる。役者になるにも、26歳からでは配役のチャンスが減ってしまうようだ。もう正直に言っちゃうけど、道重さゆみと嗣永桃子が脈々とつないできた事務所のTVバラエティ枠を壊滅させるような岡井ちゃんの恋愛に私は困惑している。他人の恋愛に口を出すのは野暮だってわかってる。わかってるけど。仕事場の信頼関係も、先輩から受け継ぎ後輩へ譲るはずの椅子も、結構な力で破壊するタイプの恋愛だよ、あれは。
6位 ふわり、恋時計 / つばきファクトリー
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ハロプロの女の子たちはある日突然、まったく悪意なく、威力の高いナパーム弾を一人で作り上げ、どこかに向かって投げることがある。爆撃された客席に死体が累々と転がり周囲が焦土になったあとに「何かが起こった」と気付く。その有名な例が飯田圭織の大人の七夕バスツアーであり、2019年の小野田紗栞ちゃんのデート疑惑ブログである。
飯田圭織の大人の七夕バスツアーはあんなに有名になってしまったが、実際当時のハロヲタはゲラゲラ笑いながら2chで実況していたし、参加しているオタクも自らを客観視しながら状況を楽しんでいる人が多かった。まず、あのツアーはアイドルを卒業してから2年も経った後の話である。あのバスツアーの最もダメなところは運営会社側(この場合は事務所と旅行代理店)が提供したサービスの悪さである。そこは大いに是正されるべきだと思うし、実際、飯田さんのバスツアーの悪評がネットに知れ渡った後のハロプロバスツアーの食事とタイムテーブルはかなり改善された。
飯田さん自身はむしろ「自分にとって最も重要な人生の節目を、自分のファンと共有したい」「ファンの皆さんに一番に報告したい!」くらいの幸福な心持ちであった、と私は予想している。それはまぎれもなく「善意」である。最愛の夫に恵まれ子供も授かった、その幸福をファンとも共有したい。自分の口から報告したい。きっとファンも祝福してくれる。そのくらいの夢見ごごちだったと、私は予想している。そこにあるのはアイドルとファンの間の悲しい気持ちのすれ違いと認知の「ずれ」だけである。どちらも「愛」によって構成されている。決して「悪意」ではない。彼女がオタクを人間として扱っていなかったわけではない。絶対にない。
それに対して当時の旅行会社の企画と事務所のやり口には、やはり多少の「悪意」を感じる。悲しいことに当時のハロプロでは「オタクを人間と思っていないのでは?」「我々にも人権があるということをご存知でしょうか?」と問いかけてしまいたくなるイベントが頻繁に開催されていた。残念なことにそれは当時の事務所の通常営業であった。リリイベの握手会で、アイドルの手に触れた1秒後に剥がしの男性に投げ飛ばされた(メンバーも驚いていた)ことを私は決して忘れない。私が今でも握手会を大の苦手とするゆえんである。エンドユーザーをなめ腐った価格とサービスの悪さゆえに、多くのドルヲタはハロプロを捨ててAKBへ流れた。当時の秋葉原のAKB劇場はファンをきちんと人間扱いしていたからだ(今は知らない)。AKBはその力を借りて大ブレイクし、ハロプロをこてんぱんにした。当然である。因果は巡っているのだ。
昔話はさておき、小野田さおりんのブログは女性アイドルが本当に好きな男の子とこっそりデートをしたときに書くブログとして1000点満点の出来栄えである。他の人間がこれを作ることはできない。あの日のさおりんのブログは唯一無二の芸術作品であると私は感じてしまう。そこに「あおり」や「悪意」を見いだしてしまうファンも多いようだけれど、私はあんまり悪意を感じないんだよね……。それよりもただ、生まれたばかりの恋の高揚だけを感じる……。「恋情に酔う少女の激情」がほとばしってる……。恋する人間だけが出す特別な粒子がwifiに乗ってブログの文字の隙間から流れてくるようだ……。『今夜だけ浮かれたかった』をさおりんが誰よりも上手に歌っている理由もわかったよ。今夜だけ浮かれてたんでしょ?わかる、わかるよ。最高に面白いよ!……と私は感じてしまうのだ。
もちろん、これはドルヲタとして最低最悪の感情であることはわかっている。悪趣味だってこともわかってる。私はアイドルの恋愛禁止は人権の侵害だと思っているし、矢口がモーニング娘。を辞めたときは彼女よりも「彼女を辞めさせた事務所」に対して怒髪天をつくほどの怒りを覚えていたけれど、そんなドルヲタは少数派だってこともわかってる。実際に金を出しCDを積みすべてのライブに通うタイプのおたくにとって、この一件が許し難いこともわかってる。つばきファクトリーという箱にとっても、この一件が致命傷になることは容易に想像できる。きっとファンは大いに萎えている。それもよくわかる。『ふわり、恋時計』はとてもいい曲だ。おのみずが大好きだ。きしもんも大好きだ。つばきファクトリーのみんなも大好きだ。もちろんさおりんのことも大好きだ。でも、つばきファクトリーがこの一件をどう乗り切ったらいいのかは、私にもわからない。
事務所は結局、小野田さおりんを「切らない」方針をとったようだ。それならば、これからのつばきファクトリーはさおりんがいかに何事もなかったように、または何事かはあったけれどむしろそれをうまく利用して「開き直っていくか」にかかっている。根性見せてほしい。
7位 トウキョウ・コンフュージョン / PINK CRES.
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なんだかなんだかありえないなんだかなんだかありえない。サビの「そういう考え全然おしゃれじゃない ねぇ そういう考え全然時代じゃない」という歌詞が大好き。決めに決めたファッションで身を包んだ雅ちゃんだけが放つことができる謎の説得力である。
だから、だからね、女性ファッション雑誌ViViが自民党のキャンペーンで雅ちゃんをセンターに使ったことは許せない。まさにアイドルが政治利用されているその瞬間を見てしまった。やめてよ!糞事務所め!許さん!断れや!
その告知において雅ちゃんが出したコメント「Be Happy ハッピーに生きていける社会にしたい!」「いじめ問題などがなくなりみんなが明るく暮らしやすい世の中になればいいなって思ってます✌」は彼女なりに必死に考えたパーフェクトな解答だと思う。雅ちゃんすごい。雅ちゃん頑張ってるよ、だからこそ!上からの命令でアイドルを特定政党のキャンペーンに参加させるのは本当にダメ。もちろん彼女自身が彼女自身の意志で自らの支持政党を表明する(それによるリスクを理解し、引き受ける覚悟がある)なら何の問題もないし、むしろその姿勢を支持するんだけど。でもそうじゃないでしょ、あれは。こんなことをされると、『トウキョウ・コンフュージョン』の素晴らしい歌詞の意味が変わってきちゃうんだよ。事務所が断れや!!!まったく!
番外 ニッポンノD・N・A! / BEYOOOOONDS
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曲とアレンジとメロディだけでいえば、今年のハロプロ楽曲大賞1位でもいい。でも歌詞が浅慮。あまりに歌詞がダメだから、この曲はおそらくメディアで推されることはない。非常にもったいないと思う。どうしてこの歌詞で「いい」と思ったんだ?どうしてこの曲の歌詞は(きついことで有名なハロプロ特有の)ダメ出しの対象にならなかったの?雨子やヒャダインの歌詞にダメ出ししまくっている場合じゃないんじゃないの?
まず、個人の性格や行動を遺伝子と結びつける議論は危うい。よほど慎重にやらないといけない。人格の形成は遺伝だけでなく、その後の環境や教育によって大いに左右される。「遺伝子で性格や行動が決まる」という考えは、優生学や血統主義や差別に利用されやすい非常に危険な思想である。「○○人種は犯罪を犯しやすい」「○○人種は知能が低い」というような、安易で差別的なレッテル貼りに容易に使われてしまう。貧困や教育資源の少なさなどの「社会的な不平等要素」を配慮せずに、あまりに少ないサンプルに基づく思い込みからそのような社会的レッテルを他人に貼りたがる人達は、残念ながらたくさんいる。そんな差別主義者に利用されてしまうから、DNAと個人の行動や性格を結びつける議論は非常に危険なものになる。後天的・社会的要素を「完璧に」排除してエビデンスを出すことは不可能であるとさえ、私は思っている。
ましてやこの曲で歌われているのは「集団」としての行動心理である。そんなもんをニッポンのDNAと言われては困る。コンビニで列になって会計を待っていることを「生粋の内弁慶」と言われても困惑するばかりだ。電車の中でみんながスマホを見ていることを「付和雷同の美学」とか言われても。関係なくない?スマホが便利なだけだろ?しかもそれを「日本のDNA」と言われても。いやそれ違うでしょ。DNAを一体なんだと思っているんだ?私の知っているDNAとはずいぶん違うぞ?まじで何を指しているつもりだ?「日本人らしい」と世間で言われている(私はそうは思わないが)集団心理の事象を「DNA」として勝手に再定義しているのだろうか?でも間奏で「デオキシリボ核酸!デオキシリボ核酸ですからー!」って前田こころちゃんに叫ばせているよな?それは辞書で引いた略語の説明をなぞっているだけ?
世界的な遺伝子解析によって、アフリカで発生した人類(ホモサピエンス)がどのような経路で世界中を移動し、日本列島までたどり着いたかの解析は順次行われている。解析しやすいミトコンドリアDNAやY染色体やHLAハプログループでさえ、かなりたくさんの種類があることが判明している。
日本人 – Wikipedia
ja.wikipedia.org › wiki › 日本人
分子人類学による説明
ニッポンのDNAって、このうちのどれかのつもりなんだろうか?それとも日本在住ってこと?使用言語が日本語ってこと?本当にDNAを何だと思っているんだ?大丈夫か……?などと思っていると、サビに「モンゴロイドDNA」と来る。
まじかよ。こりゃだめだ。大丈夫じゃなかった。やめてくれ。モンゴロイド以外の日本人は今すでにたくさんいる。日本中にいる。私の子どもの通う小学校にもたくさんいる。東京だからかもしれないが、コーカソイドもネグロイドもその他様々な人種の人々が、いたるところで働き生活している。もちろん彼らの子どもは地元の学校に通っている。モンゴロイドのDNAであることが日本のDNAではない。絶対にない。この曲は何を言っているんだろう?大丈夫か?
実際はただ音の面白さから「モンゴロイド」という言葉を採用しただけなのかもしれないし、さらに「DNA」もDA PUMPの「USA」の語感をもじっただけなんだろう。『USA』のアンサーソングという指摘も、その通りなんだろう。それにしても、思慮が足りなくないか?ニッポンのDNAって本当に何のこと?何を指しているつもりなの?今からでも遅くないから「モンゴロイド」の部分だけでも歌詞を変えませんか?
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さて、2020年2月号雑誌「ダ・ヴィンチ」にてハロプロが特集された。嬉しい。私がこのブログを立ち上げた頃、私は駆け出しの文筆家であった。まだ一冊の商業誌も出したことがなかった。モーニング娘。を好きといえば「モー娘。ってまだあったの?」と言われ、ハロプロはどん底の時期であった。私は仕事で会う様々な立場の編集者全員に「ハロプロのことが書きたいんです!」と訴えていた。当時すべての人に言われた。「もう遅い」「今の時代じゃない」「AKBならまあ、いいですよ」と。私はそのたびに、ルパンレンジャーVSパトレンジャー最終回のしほちんのごとく「そんなことありません!モー娘。は必ず復活します!」と叫んでいた。もちろん編集者さん全員が困ったように苦笑いしていた(相手は医療以外を求めていなかった、そりゃそうだ)。時は経ちあれから13年。いよいよ文芸雑誌でハロプロが表紙になった。女性目線で分析された歌詞が特集されている。私は嬉しい。生きていてよかった。もうこのブログは役目を終えたのかもしれない。
特集のサブタイトルは「ハロプロが女の人生を救うのだ!」である。大きく出たな。確かに少なくともハロプロは私の人生を救っている。それだけは確かだ、ありがとう。他の女の人のことは知らない。でも、困ったことにハロプロの「中にいる」女の人生が救われているのかどうか、今の私にはわからない。近年のグループ解体・解散・卒業ラッシュを見ていると、正直自信がなくなってきた。ハロメンには全員幸せになってほしい。卒業や脱退や突然いなくなってしまったメンバーも含めて、全員が幸せになってほしい。メンバーの幸福の前には、私たちオタクの救済なんてどうでもいいのだ。来年は幸福なお知らせが多いことを心より願っている。
※この文章をほぼ書き終わった後に新型コロナウィルス感染のパンデミックが起こった。ハロプロは現在、すべての興行を開催できていない。握手会もライブハウスもなくなりそうだ。ここに書いた事象のうちかなりのものが形を変えることを余儀なくされ、立ち行かなくなるものも出てくるだろう。世の中は本当に何が起こるかわからない。(2020/3/19)
突然だが、私は「自分が魅力的に感じるハロプロの歌詞」を大まかに3つのテーマで分類している。
①とある女子の日常風景
(例:『恋をしちゃいました!』『乙女パスタに感動』、ひとりきりイヤホンで音楽聴いている、『テーブル席空いててもカウンター席』など)
②女子の独立と自立、いわゆるジェンダー問題
(例:ガラスの靴はこの手の中にある、カボチャの馬車を正面に回して、女が目立ってなぜいけない、あぁ女なら感覚でわかるだろう、女の悲しみ三部作、『I’m a lady now』など)
③政治・環境問題
(例:選挙の日ってうちじゃなぜか投票行って外食、地球が泣いている、米がうまいぜ日本中、地球に流れる素敵な空気ぐっすり眠れる平和が好き、自由な国だから私が選ぶよ)
もちろん①女子の日常は②女子の独立と自立に直結しているし、②ジェンダーの抱える問題には③政治要素がたぶんに含まれているので、これらを分ける必要はないのだと思う。でもあえて3本柱に分けてみた。つんく♂はこの3つすべてにおいて高得点をたたき出す仕事をしてきた。その模倣を一人の作家で行うことはとうてい不可能である。つんく♂更迭後のハロプロにおいてハロプロをプロデュースしている人達(いったい誰なんだろう?個人名または団体名を公表してくれよ)は、この3種を様々な作家に分散させることによってハロプロらしさを担保しようとしている、と私は考えている。
①とある女子の日常風景と②ジェンダー問題は児玉雨子さんと山崎あおいさんと大森靖子さんがすごくいい仕事をしている。①とある女子の日常 は福田花音ちゃんも上手かった(彼女が辞めてしまうのはもったいない)。
そして②ジェンダー問題③政治環境問題を星部ショウさんや中島卓偉さんに無理矢理やらせようとして、あまり上手くいってない(ように私には見える)。そもそも、歌い手自身の思想を反映しているわけではない政治的議題を未成年女子に歌わせるのは、かなり危険な橋だ。作家自身が当事者ではないジェンダー問題を未成年女子に歌わせるのも危険な橋である。細部によほど気を使わないといけない。作詞家に対して「そんな大切なイシューは自分で語れ」「自分自身の作家生命をかけて世に語りかけろ」「他人、しかも社会的立場の弱い未成年女子を前線に出して自分の信条を語らせてるんじゃねーよ」という批判が来てしまう。とても繊細でむずかしい仕事だ。できる人の方が珍しい。星部さんと中島さんに②ジェンダーや③政治環境問題のハロプロの詞を作らせるのはあまり得策ではないと、私は思う。具体的には『赤いイヤホン』や『BRAND NEW MORNING』や『就活センセーション』あたりね。
『ニッポンのD・N・A!』の歌詞がかかえる違和感(後述)、『素直に甘えて』の「男のくせにおしゃべりが過ぎるわ」という歌詞にOKを出してしまえるところ、『赤いイヤホン』のサビに「男なんかのわがままに女はもう縛られない」という歌詞を入れてしまえるところを見ると、「つんく♂さん以外に①②③のすべてを上手に歌詞に乗せてハロプロの女子達に歌わせるのはむずかしいのではないだろうか」と感じてしまう。だって、逆に考えて「女なんかの〇〇〇〇に」という歌詞だったら、たとえそこにどんな単語が入ろうとも私は許容できないのだ。「男なんかのわがままに」という歌詞は主語が大きすぎると思う。「あなたなんかの わがままに 私はもう縛られない」だったら印象が全然違うのに。
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ちなみにつんく♂さんの男性ジェンダーに関する最新の解釈は「なぜ『愛してる』それが言えないんだろう アホらしい「男」という意地のせいなら「男」はいらない」@岸洋介 なのだ。視点の深度が違いすぎる……。
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実際のつんく♂さんのハロプロ歌詞は、①とある女子の日常②ジェンダー③政治環境問題 の三つの柱のうち一本だけをメインに歌詞を書くのではなく、三本すべてを一曲の中に内包させている。原子のまわりをふわふわとただよう電子雲のように。これはとんでもない曲芸であり、(よくできている方の)つんく♂歌詞の希有な点である。
最もわかりやすい例としてここでは『ザ・ピース!』を紹介する。軽く一聴しただけだと、都会で暮らす恋愛至上主義な女の子の脳天気な日常の歌に聴こえるかもしれないが、内包している要素は全然違う。好きな人のお昼ごはんを妄想しながら、選挙に行って外食する。まず若い女の子が安心して安全に選挙に参加できることが平和だし、投票後に家族で外食できることが平和である。まさに「政治」だ。「好きな人が優しかった」「大事な人がわかってくれた」「道行く人が親切だった」「愛しい人が正直でした」これらはすべてただの日常に見えて、実は確かに主人公を取り巻く世界が平和であることの象徴である。主人公はそれらを「感動的な出来事」と総括する。さらにつんく♂が後年語ったように、この曲の主人公は「夜に」「一人で」食べるデリバリーピザのサイズを悩んでいる。都会に暮らす女子の「孤独な」日常の風景でもあるのだ、実は。タイトルは直球で『ザ☆ピース!』。すげぇ。こんなもの、他の人には作れないよ。
私が2019年末に一番元気が出たのはつんくさんがVtuber向けに作った曲『OH!Young Heart』のライナーノーツにて、ずっと思春期女子がこれまでの自分とこれから世に出る決意を語っていたのに、最後に突然「だって、この地球を愛してるから。」という一文が挟み込まれたことであった。これだよ、これ。ゲラゲラ笑った後にすごく元気が出たよ。そうだよね!わたしもこの地球を愛してる!たとえコロナウィルスが私の身体にふりかかってARDSで死んだとしても、結局私はそんなウィルスを作り出してしまうこの地球の自然科学ごと愛しているのだ……。
つんくさんは咽頭がん術後5年を迎え「寛解」といっていいはずの状態のはずだが、ハロプロに帰ってくる気配はない。なぜだろう。さみしい。これはつんく♂がナイスガールプロジェクトをやっていた頃と同じ感覚である。あの頃も、ハロプロの外の人間の方がたくさんつんく♂の新曲を歌っていた。当時と違って今はYoutubeがあるから、マイナーな楽曲でもエンドユーザーに届く環境がある。つんく♂の作品を追うこともできる。それでもね、やっぱり私はハロプロの女の子がつんく♂のリズムと珍妙な歌詞に乗って歌い踊り出すときの高揚感が好きなんだよなぁ。
1位 KOKORO & KARADA / モーニング娘。’19
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つんく♂のハロプロ最新曲。素晴らしい。正確には2020年の楽曲大賞として挙げるべきなんだろうけど、もう知らん。だって2019年秋の娘。ツアータイトルは「KOKORO & KARADA」だったんだぞ。この曲はずいぶん前から作られていたのに、どうして2019年のうちにリリースされなかったんだろう。2019年のモーニング娘。はなんと!1回しか!シングルを出さなかった。なんで?少なすぎるよ。今年は卒業もなかったし舞台もなかったのに。もっと新曲を出してほしかった。
「やばい!娘。に動きが少なすぎてつまんないぞ!」というこの感覚には覚えがある。2008年である。この年、モーニング娘。はシングルを『リゾナントブルー』『ペッパー警部』の2枚しか出さなかった。2枚しかないうえに、そのうちの1枚は大人の事情にまみれたカバー曲。「今年のハロプロは面白くなかったなぁ。ハロプロができて以来、ハロプロが最も面白くない一年だった。寂しい。」と当時の自分もブログに書いている 。この年にAKBは大ブレイクし、モーニング娘。の人気は歴史上最も深い地底まで落ちた。娘。に動きがないとハロプロ全体が低調になっちゃうんだよ。やめてよ。もっと動いてよ!私の心は娘。15期が決定するまで沈んでいた。
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私の大好きな北海道研修生・山﨑愛生ちゃんが娘。15期に決定して私の心は舞い踊っている。『リアル☆リトル☆ガール』にて私は彼女の独特の声質に心を射貫かれていた。2018年のハロプロ研修生実力診断テストで『Wonderful World』をなぜか英語で歌ったのもすごかった。なんだったんだあれ。ひとり次元が違っていたぞ。今から思えば、ハロプロ研修生・北海道という謎団体は山﨑愛生ちゃんを守り育てるための組織だったんだな。ハロプロ研修生名古屋レッスン場が牧野真莉愛ちゃん一人を守り育てるためのゆりかごであったように。
愛生ちゃんがゴリ押し中の謎のキャッチフレーズ「パンダさんパワー!」は私への私信だと勝手にほくそ笑みつつ、私はこれからもハロヲタとして生きていくつもりです。あ、あと北川莉央ちゃんの顔とスタイルと大物然とした風格もまじで好み。Juice=Juiceの松永里愛ちゃんといいタコちゃんといい、今年ハロプロに入ってきた新人たちはみな独特の大物感がある。数年後が楽しみだ。
さて、前置きが長くなったが『KOKORO & KARADA』である。三人のメインボーカル(ふく・さく・まー)にぴったりあった一曲。
この曲はサビだ。もうサビ以外いらない!って思うくらいサビがいい。いや実際はサビ前の長いピアノソロが聴き手の感情をより高い場所へつれていく装置なんだろうけど。「君が好きさ そう好きさ もう心止められない 未来へ向かう雲に飛び乗って」「だから君もMore愛して Yes 体おもむくまま 太陽浴びてはためく帆のように」これだよこれ!相思相愛の二人のコールアンドレスポンスとしてこれ以上のものはない!最高!
止められないのは私の「KOKORO」。そして君に望むのは私をもっと愛して、「KARADA」がおもむくままに動くこと。これが逆だったら「心おもむくまま、体が止められない」であり、ちまたにあふれる凡百のラブソングになる。とくに「体が止められない」という表現は残念ながら歌謡曲によく使われがちで、脳や思考回路をあまりに軽視しており私には共感できない。肉体のせいにするんじゃないよ、その肉体をコントロールしているのは心だろう。心が阿呆であることを肉体のせいにするんじゃない。
つんく♂の描く女の子には先に「KOKORO」がある。私の心が暴走している。まず最初にそれがある。その後にあなたももっと私を愛して、心に体を従わせてくれと言ってる。素晴らしいシビリアン・コントロール。あくまで暴走するのは私の心。暴走の末、相手の心と体に対等に呼びかける。そこに古典的なマッチョイズムや男根主義や「支配と被支配」の関係性が入る隙間はない。対等に愛し合う二人の関係だけがある。
そして私は「未来へ向かう雲に飛び乗って」、対する君は「太陽浴びてはためく帆のように」私を愛する。なにこの比喩。なんと美しい、思い合う2人の歌詞だ。こんな綺麗に比喩できることがすごい。女をメロンジュース、男をバナナに例えたような流行歌もまだまだ日本には流布しているというのに、こんなに美しく対等に愛し合う二人の肉欲を表現できるとは。しかもそれがサビで、突然バックトラックの音が減り無音に近くなった中で流れる。日常から突如垂直に切り離された恋人たちの高いテンションが一瞬に封じ込められているように感じる。
2位 都営大江戸線の六本木駅で抱きしめて / CHICA#TETSU
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BEYOOOOONDSのファーストアルバム『BEYOOOOOND1St』はすごくすごくよかった。その中でも、女子の日常風景を描くことに大成功し、かつユニットのコンセプトに完璧にはまっている曲が『都営大江戸線の六本木駅で抱きしめて』である。この曲は私の中の星部ショウさんの最高傑作記録を更新した。去年までは『眼鏡の男の子』が最高傑作だと思っていたのだけど、今はまさにこの曲が最高傑作。星部さんは最高を更新し続ける作家さんである。すごいね。
『眼鏡の男の子』といい『誤爆』といい、星部さんはシチュエーションがゴリゴリに固まった状況での起承転結のある寸劇的な歌詞が合っているんだな。先ほどの三本柱で言えば①である。これは特に新しいわけではなく、古典的には松本隆の『木綿のハンカチーフ』、つんく♂ならば『恋をしちゃいました!』『君の友達』『テーブル席空いててもカウンター席』などで行われている手法だ。同じ星部さんなら『誤爆』の歌詞がまさにこれ。星部さん、生き生きしている。②ジェンダーに言及する歌詞 や ③政治環境問題 に対する不器用さとは対照的だ。②ジェンダーを書くと「男なんかのワガママに女はもう縛られない」になっちゃうし、③政治的な歌詞をむりやり書かせると「新時代の幕開け!」になっちゃうんだもん。
結局、星部さんに最もしっくりくる歌詞は①とある女子の日常描写であり、『都営大江戸線』は素晴らしい案配の女子の日常の歌である。まあちょっと鉄道の小ネタによりすぎだけど、鉄ヲタのリーダー・いっちゃんの存在とCHIKA#TETSUというユニットのコンセプトとあわせて、奇跡的にいい位置に落ちついている。これがあと少しでも演劇性の方向へ振れてしまうととたんに「日常」性が薄れ、私の心はすっと冷めてしまう。「日常」だよ「日常」。『元年バンジージャンプ』の間奏で令和=丸と丸で眼鏡くんを思い出すのは、全然「日常」じゃないよ。
BEYOOOOONDSのファーストアルバムは全体を通して『眼鏡の男の子』の物語だ。星部ショウ著「眼鏡男子サーガ」である。「都営地下鉄を使うような東京23区内に住む、令和元年の女子高生たちの日常」を描いたコンセプトアルバムとして美しく収まっている。そのコンセプト通りの小劇場的なライブを生歌で行っているメンバーたちの努力も素晴らしい。私は『トミー』と『ジギー・スターダスト』に育てられたロックおばちゃんなので、なんだかんだコンセプト・アルバムが大大大好きなのだ。BEYOOOOONDSはこの素晴らしいアルバムをひっさげ、今年一年かけて小劇団一座のように全国を回るのだろう。そしてそれはとても上手くいくだろう。ライブも盛り上がるだろう。問題はその先だ。次の一手をどちらに転ばせてくるのか、私はとても注目している。
3位 「ひとりで生きられそう」って それってねえ、褒めているの? / Juice=Juice
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『「ひとりで生きられそう」って それってねえ、褒めているの?』時代を切り取った絶妙なタイトルである。まさに②ジェンダー問題、女子の独立と自立 そのままのタイトルと歌詞だ。令和元年、今の日本を生きる20代女性向けの立ち位置として完璧。素晴らしい。
私が20代だったころ、ジュラ紀か白亜紀あたりかな、当時は女性が「ひとりで生きられそう」という「仮定」自体が成立していなかった。経済的にも社会的にも「女性がひとりで生きられるはずがない」が、当時の社会を覆うジェンダーの大前提であった。だって初期雇用も賃金も昇進も昇級も、男女で歴然とした差があったのだ。頑張って労働を続けても十分なお金がもらえないんだから、そりゃ生きていけないに決まっている。シンプルに餓死である。「女性であるゆえに」ろくな賃金をもらえない会社や、「女性であるゆえに」昇進しない社会や(残念ながら医学界もそういうところである)、「女性であるゆえに」年齢によって辞めさせる不文律がある会社(ハロプロの悪口ではありません)は、今よりもずっとずっと多かった。女性がひとりで生きる道は(実際はひとりで生きている人もそこそこいたにもかかわらず)この世に存在していないかのように作られていた。今でも、氷河期世代の女性がひとりで生きるにはかなりの重労働と圧倒的な貧困がつきまとっている。これは現在進行形の問題であるが、特に救済は用意されていない。
昔話が過ぎた。そんな時代から幾星霜、この曲に共感する若い女子が多いということは、今の20代の女の子達には女性が「ひとりで生きられそう」という「仮定」自体が(いちおう)成立しているということである。少しずつでも時代は前進している。よかった!!ハロプロに女性ファンが増えていることも嬉しい。
今度映画になるという劔 樹人さん作「あの頃。男子かしまし物語」であるが、モデルとなった当時のハロプロ現場の男女比は98:2であった。2割どころか2%。当時の現場を再現するために200人のエキストラを募集するというのなら、男女比160:40のはずがない。196:4だね。いや199:1でもいいかもしれない。
『「ひとりで生きられそう」って それってねえ、褒めているの?』を中野サンプラザのJuice=Juice公演で初聴したときの私の感想は「え?これ新曲?タイトル長いね?うーん、普通にいい曲。普通のアレンジの普通のJPOP。落ちサビの段原瑠々ちゃんが素晴らしい。しかし、これをJJが歌う意味があるのか?」であった。正直に言うと、あまりピンときていなかった。もちろんその後何度も聴いて「なるほど」と思ったし、今はもうオープニングの佳林と落ちサビの瑠々の歌声に「待ってました!」と盛り上がっている。
結局、私がJJに求めているのは『イジワルしないで抱きしめてよ』や『生まれたてのBabyLove』や太陽とシスコムーンの曲を引き継ぐ姿勢に代表される「和製アイドルファンク」なんだな……。あ、これを「赤羽橋ファンク」って呼ぶのか。
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クリスマスが来るたびに私は2016年クリスマスイベントでカバーされた『ENDLESS LOVE~I Love You More~』を聴きながら真夜中の原稿用紙を埋めている。もう何年もずっと。私の趣味はぜんぜん一般受けしない。私は古い辺境のハロヲタだ。わかってる。私の好みは売れ線からほど遠い。わかってる。『ひとそれ』が受け、JJにも女性客が増えた。来年は『プラトニックプラネット』『Va-Va-Voom』『ボーダーライン』のどれかに必ず楽曲大賞を投票します。だから音源化してよね、頼むから音源化してよ!お願いだよ!
私にとって今年のハロプロは金澤朋子の年だった。ハロプロOG まで含めれば2019年は鞘師里保と工藤遥と田村芽実と和田彩花の年だったと思うが、全員卒業している。現役ハロプロメンバーに限れば、私にとって今年は金澤朋子の年だった。まず非常に個人的なことだが、コンサートに参加できる日程がことごとくJuice=Juiceとしか合わなかった。アンジュルムの現場と日程があったのは後楽園ラクーアのアルバムリリースイベントだけだったし、娘。にいたってはカウントダウンまで予定が合わなかった。今年からコンサートのチケットが極端に手に入りにくくなったせいもある。オリンピック憎むべし。
中野サンプラザからの帰り道も武道館からの帰り道もカウコンライブビューイングの帰り道も、私は暖かいため息をはきながらずっとかなとものことを考えていた。いつもどこか不安そうだった彼女にリーダーとしての風格が出た。度肝を抜かれるほど美しいと思う瞬間が何度もあった。そして何より、歌がさらにうまくなった。これ以上上手くならないだろってくらい最初からとても上手かった歌が、さらによくなった。胸が熱くなる。かなともがハロプロという組織の中で行う仕事はおそらく2020年が最後なのだろう。2020年は、私のハロヲタとして使える時間をできるだけかなとものために使おうと思う。
(後編に続く)
2月8日公開の映画「『劇場版 騎士竜戦隊リュウソウジャーVSルパンレンジャーVSパトレンジャー/魔進戦隊キラメイジャー エピソードZERO』スーパー戦隊MOVIEパーティー」略してリュパパトを見た。公開初日に朝一番で、大泉T-JOYのルパンレンジャーによるグリーティングイベント付き上映回に行った。これがルパンイエローに会える最後のチャンスだと思ったからだ。会場はほぼ満席であった。
主役のWレッドたちは今後もヒーローショーや住宅展示場で行われるイベントに出てきてくれるであろう。でも脇役たちは違う。おそらくこれがルパンイエローと握手できる最後のチャンスである。そう思った私は子供たちを連れてはるばる大泉まで行った。アルコールで手を消毒してからヒーローのガワと握手するのはなんとも奇妙な体験であった。ルパンイエローのスーツの手部分がアルコールでボロボロにならないか心配だ。スーツの中の人の皮膚に直接触れることはないので、これは観客同志の感染を防ぐためだけに行われている処置だよな。私達のために気を配ってくれてありがとう。
リュパパトの映画は非常に面白かった。まさにルパパトの新作を私は見た。懐かしい彼らがそこにいた。月夜市がそこにあった。気のきいた簡潔なセリフ、リアリティ・ラインのはっきりした淀みなく流れる物語、それぞれに個性的な格好よさと可愛さを放つキャスト、アングルがくるくる変わる派手なアクション、致死量を超えたギャグ。この五段攻撃、まさにルパパト。大爆笑しながら「いやー今日も最っ高のルパパトだった!全員かっこいいし全員かわいい!最高!」と大満足した30分後に、実は鉛のように重いメインテーマを知らぬ間に飲み込まされていることに気付く。この感覚、まさにルパパト。私は今まさにルパパトの新作を味わっている!思い返せば香村さんはアキバレンジャーの頃からそうだったし、新しいプリキュアも2話目にしてすでにそうなので、これが香村さんの作る料理の味であり「消化管通過性」なんだろうな……。
私にとっての「鉛」は「快盗たちが大切な人と距離をおいている」現状がさらっと語られたことなんですけどね。隣に自分がいなくてもいいから、幸せに生きていってほしいってことなのか……。はあ……そうか……。透真……。初美花……。てことは魁利くんとお兄さんもか……。「戦隊シリーズで最もエゴイスティックな三人の快盗」とまでプロデューサーに言わしめたルパンレンジャーを、あのリアリティ・ラインの社会がどう断罪し、どう救済していくのか。または断罪や救済をせずに進んでいくのか。その答えはTV最終回でいったん保留にされ、今後のルパパトという作品の大きなテーマになっている。
※さらっと「今後のルパパト」とか書いてるけどそんなものがある保証はどこにもありません※
ルパンレンジャーの戦闘はあくまでも私事である。多くの一般的なヒーローの場合、自分の利益のためだけに悪を倒していた主人公たちが、しだいに誰かを守るために戦うことを覚え、最後には自分と関係のない赤の他人を守るために戦えるようになる。主人公は「真のヒーロー」に成長して物語は大団円となる。しかしルパンレンジャーは、その役割を最初からパトレンジャーに奪われている。その方向に向かって成長する道が閉ざされているのだ。これはルパパトというドラマが最初から持っている宿命である。TV本編におけるルパンレンジャーの戦いは、おそらく明確な意思を持って「私闘のまま」で終わらされた。何の関係もない他人や人類や地球のために戦う=公的な暴力は、パトレンジャーが戦うための強い動機として描かれ続けている。私人であるルパンレンジャーが「戦う必要がない」世界にするのがルパンレンジャー(とくに圭一郎)の信念なのだ。でもねぇ。この世に生きる全員が警察になれるわけではないのよ。圭ちゃんみたいに、警察がいつでも正しく市民の味方をしてくれるかと言えば、決してそうでもないのよ。警察が権力者におもねり無抵抗の市民に銃を向けてきた歴史だって、たくさんあるのよ。
私は、個人が「絶対的な悪」による理不尽に巻きこまれたときに、自らも武器を持って暴力で対抗する「覚悟」は絶対に必要であると思っている。これは『ねじまき鳥クロニクル』でも扱われているテーマだ。「邪悪で純粋な悪や暴力」はこの世に確実に存在している。ゼロにはならない。それらが自分や自分の大切な人に牙を向けてきたときは、自らの暴力性を開放してでも食い止めなければならない。世界は無菌ではないのだから、生きていくためにその覚悟は必要である。そうでなければ悪人たちに骨の髄までしゃぶられてしまう。そう私は思っている。だって、実際にベビーカーに野次を飛ばす見知らぬ人や(こちらを弱いと見てる)、何も考えず痴漢してくる人、子供を無差別に攻撃してくる人というのは存在するのだ。子供の生命や尊厳を守るためならば、私はそいつらを返り討ちにして殺す覚悟がある。その覚悟がなければ子供を守れないし、端的に言えば子供を育てることすらできない。私の子供たちにも「大切な人のためならば命をかけて戦える人間になりなさい。そういう瞬間は人生の中で1,2回あります」と教えている。その覚悟がなければ自分を守ることも、大切な何かを守ることもできない。だから私は、快盗への必要以上の断罪描写に共感できない。私は自分の息子に「恋人が化け物に襲われたならば、すべてを投げうって恋人を取り戻しに行ける人間」になってほしいのだ。透真くんには幸せになってもらわねば困る。
世界は完璧ではなく、すべての人間が警察になって公的に認められた暴力を行使することはできない。「この物語の世界観の中では快盗の手段はエゴイスティックな私闘であり、断罪されなければいけない」というのならば、それもよかろう。フィクションだから。でもその断罪には必ず救済の描写がセットで必要になる。
まずTV最終回において、大切な人たちが自分も快盗になることによる「救済」があった。家族からの救済だ。今回の映画でパトレンジャー(親しい友人かつライバル)による三者三様のゆるやかな「救済」が見られた。魁利くんや透真を見逃し、彼らの生活を気にかけ、コーヒーを飲みながら穏やかに語り合い、躊躇せず共闘する姿勢がそれである。それに対する快盗の答えも描かれている。今回の映画の中で、ルパンレンジャーは警察の装備を狙う素振りをまったく見せない。それどころか変身する時間を極力少なくして、なるべく戦闘しないようにしている。これはルパンレンジャーなりの、パトレンジャーの信念に寄り添った行動と思いやりだと思う。物語は少しずつ進んでいるのだろう。実際は相変わらず物の少ない廃墟みたいな事務所に一人たたずむ魁利くんを見て私は笑ってしまったけど。大丈夫か、彼。そこ寒くないか?まぁ結局は「死者再生」という大きなタブーに挑むノエルとルパンコレクションがどうなるのか?という議題がいまだ残っていて、その結論が出ないとルパンレンジャーの断罪も救済も完了しないんだけどね!今後の展開次第だな!
※さらっと「今後の展開」とか書いてるけどそんなものがある保証はどこにもありません※
さて、ここからは私事である。放送終了当時に3歳だった次男は、4歳になった。彼は映画を見終わって自宅に帰ると一目散にルパパトの玩具が入っているおもちゃ箱に向かった。そして「とりがー!とりがー出して!」と言い出した。彼がルパパトのロボット玩具で遊びたがるのは本当に久しぶりである。放送が終わった番組のおもちゃは、どうしても出番が少なくなるのだ。私は彼のためにルパパトのロボ玩具をざっと床に広げ、しばし様子を眺めていた。
次男は当時、ひとりでルパパトのロボットを組み立てることができなかった。手の大きさも足らず、握力も足らず、ロボのジョイントをつけ外しすることができなかったのだ。彼はいつも必死で兄にロボの組み立てを頼んでいた。1年経った彼は成長し、自分で好きなようにロボを組み立て、ばらすことができるようになっていた。すごい!成長している!母は子の成長を感じ心の中で感涙を流していた。しばらくすると彼は自力で、一人でロボを組み上げた。4歳男児が人生で最初に自分一人で組み立てたロボがこれである。
「けいさつのろぼ!」
私は驚愕した。サイレンパトカイザースプラッシュ。テコ入れのせいで映像ではいまだに出ていない、でも、もしこの映画に巨大戦があったならばようやく見られたかもしれない幻の形態、サイレンパトカイザースプラッシュ。適齢期男児が初めて自分の手で作ったマシンが、サイレンパトカイザースプラッシュ。ああああああ!!この瞬間に、私の中のルパパト玩具戦争は個人的終戦を迎えた。
「警察のおもちゃをすべて快盗にまわす」という物語を完全無視した支離滅裂なテコ入れに、くやし涙を流した現場関係者は多かっただろう。きっとみんな悔しかったはずだ。でも、安心してほしい。4歳児にはきちんと伝わっている。きちんと当事者に物語は伝わっているよ。彼らは物語をきちんと理解している。当時テコ入れを決めた上層部の人間たちよりも、子供たちのほうがずっとずっと物語の真髄をよく理解している。あんな決定をした大人たちは、消費者である子供を完全になめきっていたのだろう。そうでなければあんな支離滅裂で脈絡を無視したテコ入れを「是」とするはずがない。子供を馬鹿にしてはいけない。
これは物語をあきらめなかった制作者たちの勝利である。香村さんの粘り勝ちだ。決してめげなかった、心が折れなかった、関係者の皆さんの努力のたまものである。ルパンレッドの姿で「圭ちゃん」と呼びながらスプラッシュを手渡す魁利くんが見られたこと、腕に消化器がついたパトレン1号の姿を見られたこと、サイレンパトカイザースプラッシュを(映像で見てないにも関わらず)4歳児が組み立てたことによって、私の中のルサンチマンはきれいに浄化した。待望のスーパールパンイエローとスーパーパトレン2号も見られたしね。当時不自然に消されていた「超!警察チェンジ!」の音声も大画面でしっかり聴けたし。感無量だよ!
この映画に巨大戦がなかったことに文句を言っている大きなお友達の皆さんは、今すぐサイレンパトカイザースプラッシュを作りましょう。投げ売りされてるトリガーマシンを今すぐ買ってサイレンパトカイザースプラッシュを作りましょう。そしてロボ戦しましょう。Amazonで今ならDXサイレンストライカー980円、DXトリガーマシンスプラッシュ1849円、DXグッドストライカー1613円、あと一台は値下げしまくっているお好きなビークルを一つクリックして、完成!サイレンパトカイザースプラッシュ!ブーンドドドドドドドド!バンダイも儲かるし小売の在庫もはけるし君の欲求不満も解消できるし、一石三鳥だよ!
三谷幸喜さんの息子さんの第一声は「楽しかったあああ」だったそうだ。4歳次男は「また見たいねー!」だった。「もう一回来ようね―!」と言う彼の笑顔は輝いていた。短い時間で様々なヒーローが出てくる構成は非常にYoutubeっぽく、今どきの子供向けだと思う。盛りだくさんの「楽しい」の波状攻撃。子供は気に入った映像を何度も繰り返し見る。だからYoutubeの再生回数ランキングは子供向けばかりになる傾向がある。この映画の後半はまさにそれ。様々な人気コンテンツが融合したキラやばな波状攻撃は非常に楽しく、Youtubeっぽかった。適齢期の子供は長い映画の後半に集中力がきれてダレてしまうから、この構成はとてもいいと思う。こりゃ子供は何度だって見たいだろうな。リロードマーク連打しまくりだな。ちなみに映画は結局計3回見た。はやく円盤がほしい。
そして、残念なことにあれだけ盛りだくさんの内容で完成度の高い作品を見せられたにも関わらず、映画が終わったあとの私の頭はいつも「キラメイピンク最高に可愛い。やばいどうしよう。超好み超好み超好み。めっちゃタイプだ!!!」で占められてしまう。私は本当にどうしようもない。
だってさ、確かにああいうタイプの女医さんっているんだよ。「お上品爆弾」を炸裂させて周囲から浮上するタイプの有能な女の医者。46歳くらいで黒髪で品のいい服とブランドの白衣を着て、非常に可愛らしい外見と仕草で、マイナー科の准教授や医局長や科長をやってたりする。そう46歳くらい。46歳くらい……。約半分の年齢(設定23歳)にしてあの境地に達しているとは、キラメイピンクはよほど強いキラメンタルの持ち主に違いない。今から1年間が楽しみである。(2020/2/26)
こんな私でも、新型感染症が流行しているときは病院へ向かう足が重い。アフリカでエボラ出血熱が流行したときも同じ憂鬱を感じた。 2014年である。今回はそれよりもずっと身にせまる危機である。憂鬱だ。間質性肺炎って苦しいんだよなぁ。あまりに憂鬱で、私はいよいよかばんの中に初美花ちゃんのぬいぐるみを入れて出勤するようになった。つかさ先輩のようである。彼女もきっと、命を危険に晒し続ける現場で働くプレッシャーをぬいぐるみで解消しているんだろう。私が感染症で死ぬのはしかたない。医者は患者から病気をもらって死ぬ。古今東西、そういうものだ。だから私が死ぬのは覚悟している。でも、子供にうつしたり家族にうつしたり友人や同僚にうつしたり患者さんにうつしたりすることは耐えられない。恐ろしい。足がすくむ。それでも私は病院へ行く。
医者が致死的な感染症にかかっている患者の前に立てるのはなぜか。それは「知識の鎧」 を身にまとっているからである。「自分にはうつらないはずだ、それだけの準備と対策をしている」という確信 が持てるから、我々は病原体に対峙することができる。科学的知識に基づき、その知識を実践するための医療資源が潤沢にあって(清潔な防護具、つまりガウンやマスクやフェイスシールドや手袋)それらを適切に使用できるならば、「自分の身は守られている」と信じることができる。それは「正しい医学知識」でできた物理的、かつ心理的な鎧である。科学的に正しいと確信できるだけの知識があるから、恐怖心をぐっと抑えられる。そうでなければ、自分を殺し家族にも危害を加えるかもしれない病原体の前にこの身を晒すことなどできない。名誉欲や使命感や高給だけでそんな無謀なことはできない。「私は、私自身のこの身体は、私が必死に勉強し信じてきた医学的知識によって確かに守られている!大丈夫だ!」と、他の誰でもない自分自身の脳で確信を持つしかない。それがなければ、病院に出勤することすらできなくなる。恐怖で逃げ出したくなってしまう。「インフルエンザウィルスはアルコールで無効化できる」という確信がなければインフルエンザ患者の診察はできない。「麻疹は予防接種で抗体がついていれば大丈夫。私には抗体がついている」という確信がなければ小児科や皮膚科の外来はできない。「院内感染となる耐性菌が出てもスタンダード・プリコーションを守っていれば大丈夫」と知っていなければ老人介護施設で働くことはできない。様々な病原体に対して毎日生身で立ち向かっていくための「勇気」は、「科学的で正確な知識」からしか得られない のだ。世界中の医者が今そうやって生命の根源的恐怖と戦っている。武漢で続々と亡くなくなっている医者に対して、他人事でいられる医者など世界中のどこにもいない。みな明日は我が身だと思っている。武漢で亡くなっている医療者はすべて私の未来だ。世界中の医療従事者がそう思っている。2003年にSARSを新型感染症と初めて認定したイタリア人医師カルロ・ウルバニ氏はSARSで死に、COVID-19を世界で最初に報告した李文亮医師もCOVID-19で死んだ。
自分の身を守る鎧は自分の医学的知識しかない。だから、その防具は他の誰でもない自分の力でメンテナンスしなければならない。戦国武将の侍の鎧や刀と同じである。他人に任せることはできない。自分の目で見て調べ、自分の脳神経回路で確信したことしか、医者は信じない。そういう意味で医者は非常に個人の独立性が強い。もちろん、知識が独善的にならないように私たちは絶えず医療者同士でディスカッションをする。この文章も、見知らぬ誰かへのディスカッションのつもりで書いている側面がある。2020年2月中旬、世界中の医者がダイヤモンド・プリンセス号の現状について自分で調べ、強い関心を寄せていた。もちろん私もそうであった。
私たち――船に乗っていない医者たち――は、ずっと「なぜダイヤモンド・プリンセス号の中でこんなに感染が拡大しているのか」と不思議に思っていた。もちろん、最初に疑うのは「それだけ感染力が強い」新種のウィルスである可能性だ。未知の新しいウィルスなんだからその可能性も十分ある。感染症対策の初歩である標準 予防策( スタンダード・プレコーション)が行われても感染してしまうウィルスならば、正直に言うと、打つ手が限られてくる。患者さんから医療者への感染や院内感染を確実に防ぐことが非常に難しくなる。その次元の感染力である可能性を、みなが考えていた。そうすると、医療者の次の目標は「世界中に広まっていく速度をできるだけゆっくりにしていくこと」になってしまう。その間に特効薬やワクチンを即急に作る努力を重ねる。そもそも、2003年のSARSコロナウィルスの流行から17年たっているのにいまだワクチンも治療法も確立できていないのだから、コロナウィルスってのは変異が早い厄介なウィルスなのだ。グローバル社会におけるウィルス感染の広がりの速さに追いつくことができるだろうか?医療の打つ手よりもウィルスの広がりの方が早い場合は、「人類全員が感染したあとに生き残った人類で新たな歴史を作っていく」帰結になってしまう。実際そうなってきた歴史は、ある。スペイン風邪もそうだったし、新型インフルエンザのときもそうであった。ニホンオオカミはおそらく明治時代の開国で輸入された狂犬病ウィルスとジステンパーウィルスによって絶滅した。
つまり私たち医者はみな「感染症のスタンダードな対策であるスタンダード・プレコーションまたはそれ以上の対策がダイアモンド・プリンセス号では行われている」と思っていたのだ。だってスタンダードだし。そこらへんの民間病院で院内感染の対策が必要な感染症が出ちゃった場合にも、ごく普通に日常的にやってることだし。まさか今の日本で、世界中が注目している新型感染症に対して、スタンダード・プレコーションをやっていないはずはないでしょ!!!!そう思っていた。のんきにも信じ込んでいた、と言ってもいい。
しかし実際は違った。実際はスタンダード・プレコーションどころか、それ以前の「レッドゾーンとグリーンゾーンのすみ分け」すら行われていなかった。愕然とする事実である。それを私は岩田先生の動画で初めて知った。私の率直な感想は「なーんだ、そうか!それじゃあウィルスが感染拡大するのは当たり前だ!」であった。「スタンダード・プレコーションが行われているのに院内感染を防げない」「スタンダード・プレコーションが行われているのに3500人中600人超が感染した」という、非常に強い拡散力に私はおののいていたのだ。その認識はずれていた。「スタンダード・プレコーションどころか不潔と清潔の区別すらやってない環境でウィルスが拡散した」これは至極当然の話である。医学的には当たり前の事実が衆目にさらされただけだった。科学的には朗報、とさえ言える。だって「ダイアモンド・プリンセス号での拡散はCOVID-19のあまりに高い感染力を証明している」わけではなかったのだから。COVID-19の感染力の評価は私の中でいったん保留となった。
もちろん疫学という学問において、この一件は歴史に残る大失態である。14日間以上もの間、日本政府に言われたことを信じて脱走もせず暴動も起こさず船に閉じこもってくださった皆さんの苦労がこれでは浮かばれない。ダイアモンド・プリンセス号の名が公衆衛生と感染症学の教科書に永遠に残ることはすでに決定している。この後長期にわたって、世界中から様々な言語で様々な論文が書かれる。乗客全員の身元が確定し保証されている(社会的地位の高い人が多い)ゆえに追跡調査が非常にしやすいこと、世界各国の乗客から取れる確かな証言(つまり世界中の国と言語で論文が書ける)、時々刻々とアップされた船内写真の多さ(どれも隔離が全く実施できていないことの十分な証拠写真となっている)、どれも疫学的研究にふさわしい。世界中の医学論文で検証され続けることはもう決まっている。きらびやかな外見とキャッチーな名称は、その知名度にさらなる拍車をかけるだろう。
※ 参考例:2003年のSARSコロナウィルス拡散の疫学調査。香港のホテルに宿泊した中国本土の内科教授(その後SARSによって死亡)が、たった一晩の宿泊で周囲の部屋に広めたエリアの図。ダイヤモンド・プリンセス号においてもこのような検証が今後世界中で行われていくであろう。
船の状況は岩田先生が動画を発表したからこそわかった事実である。そう、事実。科学的事実だ。サイエンスである。船内にいる乗客がアップしている写真や、船内にいるアメリカ人医師の証言からも先生の言っていることが科学的に事実であり真摯な内容であることは一瞬にして十分に確認された。岩田先生の行動の揚げ足を取ることは非常にたやすい。先生もそんな事はわかりきっていただろう。それでも、先生は科学的正しさと、患者さん(この場合は船中の人たち)の健康と生命を優先した。そして正しい見識を最も早い方法で世界に広げた。ウィルスは待ってくれない。「船の中はレッドゾーンとグリーンゾーンのすみ分けすらやっていない」「だからウィルスが拡散した」「きょう船から降り世界中に帰国する人たちはウィルスを保有している可能性が大いにある」 という科学的にゆるぎのない事実を世界中の医者に届けた。これは何よりも公衆衛生的に重要なことである。科学的で正確な情報を迅速に流すことが、感染症対策において最も重要だ。一番ダメなのは隠蔽すること。これはかえって感染を広げる。
岩田先生は感染を広げないこと、そして何よりも、船内の人たちの生命と健康を第一に考えている。私たちの敵はウィルスである。 人間でも官僚組織でも政治スタンスでもない。国籍でもオリンピック開催でも船に乗るための手続きでもない。それらで争うことは、サイエンスの徒である我々医療者にとってすべて意味のない場外乱闘である。彼らの舌戦は私のやっている野球とは何の関係もない。それよりも、岩田先生が正確で迅速でプリミティブな情報を流すことができなくなったら、それは非常に困る。世界中の医者が困るんだよ! 我々のウィルスとの一対一戦争の邪魔をするのはやめてくれ!!!
私は、これだけ国際的に信用が落ちた日本という国の公衆衛生の評価を上げるための唯一の方法は、「今からでも遅くないから三顧の礼で岩田先生をダイヤモンド・プリンセス号に招き入れ、感染症対策の最高責任者にする」ことだとさえ思っている。まあ、ないだろうけど。
私は研修医の頃から岩田先生の本で感染症を勉強している。岩田先生は日本一の感染症の専門家だと、私はずっと思っている。ダイヤモンド・プリンセス号の動画をもって、先生は世界一の感染症の専門家になった。たとえ先生が現職を追われることになったとしても、世界中の大学が感染症学の教授の席を用意して岩田先生を招聘するであろう。私はそれを確信している。
だって先生は現場で働く世界中の医者全員の脳に「正しい知識」を配ってくれたのだ。 ダイヤモンド・プリンセスは汚染ゾーンの隔離すらしていないと。スタンダードな感染対策どころかその何十歩も手前の状態であったと。そして、そこで暮らしていた人たちがあなたの国の空港に帰ってくる、 と。その知識を持っているか否かで、各国の医師の取る対策はまるで違う。おそらく彼らのうちの幾分かがウィルスを持ち帰る。そういう目で管理しなくてはならない。ダイヤモンド・プリンセス号帰りの人が「一般人よりも多くの審査をかいくぐった、感染の可能性がより低い人間」になるか「最低でも2週間の隔離が必要な人」になるか。これはぜんぜん違うのだ。岩田先生には、あの日あの時(船からの下船が始まる直前)に世界中に科学的に正しい知識を早急に配る必要があった のだ。
私たちは毎日生身を晒して、ウィルスという「敵」と戦っている。ウィルスだって私だって命がけだ。殺すか殺されるかの勝負である。私は日本に住む日本の医者として、岩田先生を称賛する記事を挙げなければならない。本当はルパンレンジャーVSパトレンジャーの新しい映画でどれだけ初美花ちゃんが美しく成長していたかについて書きたくてたまらないのだが、その時間はなくなった。いつか必ず書く。書いてやる。
感染症において岩田先生の行う行動であるならば間違いなく医学的にも科学的にも正しく、患者さんのためになるという確信を、他でもない私自身が持っていたからこそ、私は瞬時に動画を信じることができた。それは私が先生の感染症の教科書を研修医の頃からずっと読み、今回の新型コロナウィルス感染においても先生のブログを随時読んでいたからである。書籍にはそういう力がある。私は岩田先生のことを知らないし、先生も私のことを知らないけれど、岩田先生は研修医の頃からずっと私の感染症の「先生」だ。感染症において岩田先生と自分の意見がくい違うのならば、私は自分の意見など瞬時に投げ捨てて先生の意見を採用する。だって、先生の方が感染症については圧倒的に詳しいから。それが「専門」である。感染症に関して岩田先生にコンサルトできるなんて、有り難くて涙が出るレベルなのだ。厚生労働省がなぜそうでなかったのか、私にはわからない。
というわけで、私は私自身を守るために「知識の鎧」を毎日、自分の手で作りあげる必要がある。COVID-19の国内感染状況と、各自治体の打ち出す対策と、中国からの最新論文と、同じコロナウィルスであるSARSの過去の動勢について勉強しなければならない。状況は刻一刻と変わる。水際対策は失敗した。日本における新型コロナウィルスはもう市中感染症として対策しなくてはいけない。それは東大も日本環境感染症学会も同じ見解である。私もそう思う(それはそれとして水際対策としてのダイヤモンド・プリンセス号の環境改善と評価はきちんと必要である)。
※日本感染症学会と日本環境感染学会の出したPDF。
新型コロナウイルス感染症(COVID-19)―水際対策から感染蔓延期に向けて―(2020 年2 月21 日現在)
すでに感染蔓延期。その通りだと思う。偽陰性(本当は感染しているのに、検査で+が出にくい)が多いことはCOVID-19の管理を非常に困難にしている。結果が陰性でも感染してないという確定ができない。
※当時のSARSの記事。
COVID-19は当時のSARSコロナウィルスよりも潜伏期間が長く、致死率が少ない印象。同じコロナウィルスだけあって臨床症状はよく似ている。SARSコロナウィルスの主な死因はARDS。感染者の中からARDSになる人と軽症ですむ人、その分岐点はどこにあるのだろう?当時も不明であり、現在のCOVID-19でも不明だ。どうして子供と女性はARDSに(比較的)なりにくいのだろう?どうして高齢者ほどARDSになるの?そして、どうしてSARSの院内感染率は高かったのだろう?人工呼吸器管理時のエアロゾルなのか?
とりあえず2020年2月18日現在、検査はPCRしかなく、そのPCRも保健所を通じてお伺いを立て、保健所のOKが出た症例しか検査できない状態であるのはなんとかしてほしい。そもそも「新型コロナウィルス疑い患者の要件」※※が、市中感染フェーズに移行した東京の現状に追いついていない。病院が病院だけの判断で迅速に直接の検査ができるようにしないと、もう間に合わないと私は感じている。
※※ 現状の「新型コロナウィルス疑い患者の要件」
「新型コロナウイルス感染症の疑い患者の定義」
次のいずれかに該当し、かつ、他の感染症又は他の病因によることが明らかでなく、新型コロナウイルス感染症を疑う場合。ただし、必ずしも次の要件に限定されるものではない。
1)発熱または呼吸器症状(軽症の場合を含む。)を呈するものであって、新型コロナウイルス感染症であることが確定したものと濃厚接触歴があるもの
2)37.5℃以上の発熱かつ呼吸器症状を有し、発症前14日以内に中国湖北省に渡航又は居住していたもの
3)37.5℃以上の発熱かつ呼吸器症状を有し、発症前14日以内に中国湖北省に渡航又は居住していたものと濃厚接触歴があるもの
4)発熱、呼吸器症状その他感染症を疑わせるような症状のうち、医師が一般に認められている医学的知見に基づき、集中治療その他これに準ずるものが必要であり、かつ、直ちに特定の感染症と診断することができないと判断し(感染症法第14条第1項に規定する厚生労働省令で定める疑似症に相当)、新型コロナウイルス感染症の鑑別を要したもの
鳥取県のサイトより
まず「COVID-19疑い患者」になるためにこの4つの厳しい「疑い要件」が必要である。これがないと一般診療に回されてしまう。検査の「依頼」すら出しにくい。さらに「診察した上で保健所へ報告し」「保健所と自治体がOKを出した例にしか」PCRができない。これではあまりに遅い(そもそも中国全土じゃなく2省だけっていうのも疑問符がつくのだが)。明日以降、熱発の肺炎患者でインフルでもマイコでもないってときいったいどうすればいいんだ?臨床症状だけから検査なしで診断するのは御法度でしょ?個室入院で様子見なのか?肺炎になってなければ家庭隔離?
※2月23日、近いうちに各病院でもPCRできるようになる というニュースあり。よかった。試薬はよ!
※実は2月17日に厚労省のお達し がPDFで出ていて(これはよくない周知のやり方。必要な情報までたどり着きにくい)「発熱かつ呼吸器症状かつ入院を要する肺炎が疑われたとき」「医師が総合的に判断した結果、新型コロナウィルス感染症を疑うとき」も検査対象者になっていたらしい。うーん、これは保健所によって対応にばらつきが出ているな?
もう我々は、冬に外来に来る熱発患者は全員インフルエンザにかかっているものとして対策していたのと同じように、外来に来る感冒症状の発熱患者全員がコロナウィルスを保有していてもおかしくないと「仮定して」対応しなくてはならない。それは何よりもまず私自身が伝染らないために。気が重い。防護具が潤沢な環境ばかりでもないからなぁ。古来より、医療従事者は患者から病気をもらい、流行病で死ぬ。感染症のリスクが高いからこそ、医療従事者には高い賃金と社会的地位が保証されていると言っても過言ではない。わかってる。医者は患者から病気をもらって死ぬ。わかってる。ああ、でも。気が重い。私は今日も初美花ちゃんのぬいぐるみをそっとかばんに忍ばせて病院に向かう。これで勇気が足りなくなったら次はヒーリングっどプリキュア・キュアタッチ変身ヒーリングステッキを買おう。そうだ、今季のプリキュアは医者だ。しかも脚本は香村さんだ。しかも敵はナノビョーゲンだ。ナノサイズの病原体といえばウィルスである。プリキュア全員女医というコンセプトはおそらく医学部受験女子差別問題に対して東映が出した明瞭で力強い回答だと私は思っていたのだが、まさか病原体と戦う設定がここまでタイムリーな議題になってしまうとは制作陣も予想してなかっただろう。キラメイピンクも医者である。これはもう、私がプリキュアになった、私が戦隊メンバーになったと言っていいのではないか!?そうだ。きっとそうに違いない。(2020/02/24時点の私見。現状は刻々と変わります)
本日は寒くお足元も悪いなか、当サークルにお立ち寄りいただきありがとうございました。
帰宅後は暖かくしてお過ごしください。私は感冒を引きました。
次のコミケはオリンピックのため5月開催になります。
「ねじ子アマ」は5月4日に参加予定です。
来年もよろしくおねがいします。
それでは皆さまよいお年を。
私は今日、これから、12/31がオタク活動に全力で従事できる唯一の日になります。BEYOOOOONDSちゃんレコード大賞最優秀新人賞おめでとう!ハロプロ楽曲大賞だ!カウントダウンコンサートだ!いえーい!いつも12/31がコミケだったから、大晦日におたく活動ができるのが新鮮だー!一日分のご褒美をもらった気持ちでハロヲタしてきます。(2019/12/30)
2019/12/30 東京ビッグサイト
南ハ-18a「ねじ子アマ」
★新刊
『現着!QQQ 2 ―病院に着く前に―』 A5/96p/1000円 紹介はこちら 。
★既刊
『平成医療手技図譜』
針モノ編 改 A5/148p/1000円
ICU編 A5/116p/1000円
精神編 A5/116p/1000円
心療内科編 A5/148p/1000円
手術編 改 A5/116p/1000円
その他の既刊
『救外戦隊ネラレンジャー』A5/80p/600円
『現着!QQQ ー病院に着く前にー』A5/96p/1000円 紹介はこちら 。
いずれも少部数ずつ持ち込んでいます。机の上にない場合はお声掛けください。
※なお、商業誌『ヒミツ手技』『ぐっとくる』と同人誌『平成医療手技図譜』はこのような関係になっています。わかりにくい方はこちらを見てチェックしてください。
2019/12/30 コミックマーケット 南4ホール ハ-18a ねじ子アマ
★冬コミ新刊 『現着!QQQ 2 ―病院に着く前に―』96ページ 1000円
マンガと文章の本です。
昨年の冬コミで出した『現着!QQQ』 の続きです。
一話完結なので『2』だけでも読めます。『現着!QQQ』も搬入しているので、同時に購入することもできます。
救命救急士さん・救急隊員さん向け実務情報雑誌『プレホスピタル・ケア』2011年8月号~2014年2月号にて連載した原稿です。今回は第10話から16話までを加筆修正してまとめ、さらに「オチ」として17話を描き下ろしました。
現着は「げんちゃく」と読みます。「現場に到着」という意味です。QQQはQQQuesitonであり、仮面ライダーOOO(オーズ)が大好きだった頃に描いたことのあかしでもあります。
119番が鳴り、救急車が呼ばれ、救急隊が現場に着いてから病院に着くまでの間。短いようで、当事者には永遠のように長く感じられるあの時間。その間に必死に頭を働かせて考えること。そんな内容を漫画とクイズとその解説の文章としてまとめました。救命救急士の秋山くんと、その幼なじみで特撮オタクの外科医・辻先生による掛け合い医療マンガをお楽しみください。
収録内容はざっとこんな感じです。
(目次自体がクイズのヒントになってしまうので、順番は本編と変えています)
・小児の頭部外傷
・高エネルギー交通外傷
・透析患者の救急
・頚椎損傷
・風呂場での急変
・急性胃腸炎
・失神発作の鑑別 etc
以下サンプルです。第11話をまるごと載せました。↓
おまけ。医療従事者向けノロウィルスお掃除方法も載ってます↓
(2019/12/29)
冬コミの修羅場が終わった。今回は特に「実生活」と「医業」と「執筆」の三つの兼ね合わせがむずかしかった。さらにそこに家族のインフルエンザと溶連菌と自分の腱鞘炎と家事と育児とサンタさんのお手伝いとカントリー・ガールズ全員卒業(「なんの理由があって私の可愛い娘たちがこんなひどい目にあわなきゃいけないんだよ!おかしいだろ!」って憤りが止まらない)と、ガラルチャンピオンリーグとポケモンカレー図鑑完成とリングフィットトレーニングが重なって、死ぬかと思った。
VIDEO
スーパー戦隊Vシネマ「リュウソウジャーVSルパンレンジャーVSパトレンジャー」の一報があったから私は頑張れた。これがなかったら頑張れなかった。脚本が香村さんと荒川さんの共作で嬉しい。戦隊Vシネマが全国ロードショーに戻ったことが嬉しい。快盗たちの後日談が描かれていそうな予告であることが、飛び上がるほど嬉しい。原稿用紙に埋れて徹夜しながら、私はこの動画を100回は再生した。あぁ、この数ヶ月夢にまでみたルパパトの新規映像だ!
そしてサンタさんからもクリスマスプレゼントが来たよ!ありがとうサンタさん!良い子とはいえない私の元にも、サンタさんが来てくれた!やったあ!
……脊髄反射で予約注文したあと商品説明をじっくり読んでるんだけど、初美花ちゃんの要素が全然ないな(小声)ブロマイド?にいるかもしれないくらい?
戦隊ブログvol.107 ルパパトのメモリアルアイテム、予約受付開始! | スーパー戦隊おもちゃウェブ | バンダイ公式サイト
商品開発者さんのライナーノーツがとても熱くて嬉しい。新規音声収録がたくさんあって嬉しい。私の一番好きな劇伴である『快盗戦隊ルパンレンジャーのテーマ』がボタン一つで流れるだけでも1万円の価値はある。やったね!
しかし初美花ちゃんの要素が全然ないな(小声)
戦隊メンバー全員分の音声を少しだけでも入れてくれていいのよ、ほら、変身時の名乗りとかさ。決め台詞もいいね。一言だけでもいいから、なにかないのかな。
……プレミアムバンダイはいつからか、私達ハロヲタの財布を狙わなくなった。放送開始初期はWヒロイングッズ だの何だのを用意して私たちを狙い撃ちしていたというのに、今はまったくない。
これはWレッドとノエルにたくさんの新規ファンがつき、金銭化のめどが立っている(つまりそっちの方が儲かる)ということなんだろう。これはこれで素晴らしいことだ。
Wヒロインのみが出演したてれびくんDVD『ガール・フレンズ・アーミー』はその販売形態とあまりの高額ぶりに、特撮ファンからもハロヲタからもかなりの反発を招いた。
VIDEO
癒してハロプロ てれびくんのルパパトヒロインDVD 本編16分で6500円っておかしくない?
ハロプロニュース : 【工藤遥効果】子供の味方「てれびくん」がおっきなお友達向けの商売に手を出してしまう
工藤ファンの中からも「あんな商品をあんな値段で買ってはいけない」「あんなぼったくりDVDでもファンは買う。足下を見られてるんだ」「あんな値段でDVDを買った奴がいるから、小学館は調子に乗って15000円もする超全集を出すんだよ」という声も聞いた。
それらの意見は正しい。きっと正しい。私も当時、怒髪が天をついた。私は古い人間なので10年前に『てれびくん特せい 仮面ライダーオーズ超(ハイパー)バトルDVDクイズとダンスとタカガルバ』(本編23分)を送料込で1250円で購入したことを、きちんと覚えている。つまり16分6,500円は明らかに高い。アイドルの映像商品の相場としてもありえないほど高い。ましてや子ども向けのお値段からはかけ離れている。全国の良心的な親御さんや特撮ファンが怒るのも当然だ。
ハロヲタすらも分断するような、そんな売り方はもう真っ平ごめんだ。おたくの財布を狙われまくって、足元を見られまくり、オタクの間でも激しく意見が割れてしまうような事態はもう二度とごめんなのだ。ごめんなんだけど。
……全然あてにされなくなると、それはそれで、嬉しいような、ありがたいような、少しさびしいような。(2019/12/29)
追記:クリスマスケーキは子どものリクエストで仮面ライダーゼロワン(プログライズキー付き)を選びました。スモークサーモンのサラダも作って食べたよ!
インフルエンザ療養中で暇を持て余していた長男のために、塗り絵を作ることにした。すでに解熱して体力は有り余っているものの、他人への感染力があるため外で遊ぶことができない状態の子供を退屈させないために、塗り絵はとても有益である。私も好きなファン・フィクションを描けてよい気分転換になる。一石二鳥だ。ちなみに台風で2日間家から出られない間も、この塗り絵は非常に役に立った。なんと言っても電源を使用しない。停電しても大丈夫。ていねいに塗っていると、そこそこ長い時間をつぶせる。親子の遊びとして最適だ。
「変身後も描いてほしい」と言われたので「るぱぱとぬりえ その2」も作った。金と銀の色鉛筆があると、より楽しい。
私は人体のデフォルメをするとき、四肢の末端を肥大させる癖がある。これは完全に手塚治虫先生の影響である。吾妻ひでお先生や内山亜紀先生も私と同じタイプであった。私の動物イラストの原点がテディベアやパンダのぬいぐるみにあることも一因なのだろう。とにかく手足を大きく描いてしまう。
ちなみに、現在における人体デフォルメイラストの流行は「手足の先端を細く小さくする」ことである。私も仕事であれば手足の先を細く小さく描くこともある。でも、自分が「可愛い!」と思うように描くとつい手足の先が太くなってしまうのだ。
「絵を描く」という行為には肉体的な喜びがある。特に、好きなものの絵を描いているときに感じる喜びは大きい。好きな対象の絵を描きあげたあと、全身が喜びで満たされるのがわかる。この前腕の筋肉に、この手掌と指に集まったたくさんの小さな伸筋群と屈筋群に、それらにつながる末梢神経と前頭葉に喜びが走る。ただじっと対象を見ることよりも、語ることよりも、関連グッズを消費するよりも、よりよく対象を理解し対象と溶け合うような感覚に満たされる。これは他では得がたい肉体的な喜びの体験である。プールでたっぷり泳いだ後に肌と筋肉が感じる、水と溶け合うような感覚。または緑の森の中を歩いた後に感じる心地よさと爽快感。それらに近いものを感じる。絵を描くことで私は対象を十全に咀嚼し、理解することができる。「絵を描く」ということは愛する対象を「理解する」ことであり、私がどのように世界を理解したかを「表に出す」行為でもある。描画以外では得られない高揚感を私はいま感じている、ルパンレンジャーとパトレンジャーの絵を描きながら。(正確には、医学の絵を描いているときにも私は同じ快感を感じている。絵を描きながら私は、このちっぽけな私は、人類の四千年の歴史とともに続く医学という学問の海に溶けて融合していくのだ。)
例えば私は初美花ちゃんのイヤリングやつかささんの前髪サイドの編み込みの構造に大きく注意が向く。資料をじっくり観察し、丁寧に書こうと心がける。それに対して、VSチェンジャーはもうできるだけ描きたくない。描写も適当になる。なんなら「しまった、どうしてVSチェンジャーを持つ構図にしてしまったんだろう。VSチェンジャーを描くのが面倒くさい!違うポーズにするべきだった!」とさえ思う。
ところが小学生の息子は、私が適当に描いたVSチェンジャーの構造のミスにすぐに気がつくのである。彼は塗り絵をしながら「VSチェンジャーが左右対称じゃない、おかしい」「オレンジ色を塗る部分がない、おかしい」「圭一郎の手の関節がおかしい。肘をひねってる。これじゃチェンジャー持てないよ?」という感想を持つのである(その通りであった)。VSチェンジャーに関しては、わざわざ本物のおもちゃを手元にもってきて赤いパトランプやオレンジのラインや黒い縁取りをわざわざ追加で描いていた。私はうろ覚えで適当に描いて満足していたのに!
それに対して、私が注力して描いた女子の髪型に関してはなんの興味もない。子「つかさ先輩の髪の毛の横、これなに?」母「編み込みだよ」子「なにそれ?そんなのあったっけ?」母「あったよ!ほら!(実際の写真を見せる)」子「あー、いらないよ。これ」という反応である。「いらなくねえよ!むしろ一番重要だよ!」という私の叫びも、彼には響かない。彼は人体の関節の構造とメカの細かい意匠にしか関心がないのだ。「絵を描く」という行為には「興味の違い」が如実に出ることがよくわかる一例である。興味の違い、つまり「世界を見つめる角度の違い」が露骨に出る。私が全力で注視した①まず顔を似せること、②髪型を似せること、③快盗衣装と警察衣装の細かい意匠を四頭身に可愛く落とし込むことに、彼はまったく関心がない。でもVSチェンジャーにオレンジ色のランプが描かれてないことは耐えられない。絵を描くということは対象をより知るということであり、対象に向いている興味が露骨に表に出てしまうことであり、その人が世界をどのように見ているかを(自らの意図よりもずっと赤裸々に)うつし出す行為である。絵を見れば、その人が世界をどう見ているかがわかる。
ちなみにその後、帰宅した次男は変身後のノエルがいないことに耐えられないらしく「エックスは!?エックスいるでしょ。かいて」としつこく食い下がられた。「あ、いや、活動初期ってことでどうですか?ノエルが来日する前の絵ってことで、よくない?だめ?」という私の意見は彼にまったく受け入れられなかった。しかもルパンエックスとパトレンエックスの両方を追加で描かされた。まったく、たとえ塗り絵であっても絵を描くということはその人が世界をどう見ているかを表出させる行為である。画家には世界が彼ら/彼女らの描く絵のように見えているのだ。(2019/10/20)
るぱぱとぬりえ
るぱぱとぬりえ その2
(ご自由にお塗りください)
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