2月8日公開の映画「『劇場版 騎士竜戦隊リュウソウジャーVSルパンレンジャーVSパトレンジャー/魔進戦隊キラメイジャー エピソードZERO』スーパー戦隊MOVIEパーティー」略してリュパパトを見た。公開初日に朝一番で、大泉T-JOYのルパンレンジャーによるグリーティングイベント付き上映回に行った。これがルパンイエローに会える最後のチャンスだと思ったからだ。会場はほぼ満席であった。
主役のWレッドたちは今後もヒーローショーや住宅展示場で行われるイベントに出てきてくれるであろう。でも脇役たちは違う。おそらくこれがルパンイエローと握手できる最後のチャンスである。そう思った私は子供たちを連れてはるばる大泉まで行った。アルコールで手を消毒してからヒーローのガワと握手するのはなんとも奇妙な体験であった。ルパンイエローのスーツの手部分がアルコールでボロボロにならないか心配だ。スーツの中の人の皮膚に直接触れることはないので、これは観客同志の感染を防ぐためだけに行われている処置だよな。私達のために気を配ってくれてありがとう。

リュパパトの映画は非常に面白かった。まさにルパパトの新作を私は見た。懐かしい彼らがそこにいた。月夜市がそこにあった。気のきいた簡潔なセリフ、リアリティ・ラインのはっきりした淀みなく流れる物語、それぞれに個性的な格好よさと可愛さを放つキャスト、アングルがくるくる変わる派手なアクション、致死量を超えたギャグ。この五段攻撃、まさにルパパト。大爆笑しながら「いやー今日も最っ高のルパパトだった!全員かっこいいし全員かわいい!最高!」と大満足した30分後に、実は鉛のように重いメインテーマを知らぬ間に飲み込まされていることに気付く。この感覚、まさにルパパト。私は今まさにルパパトの新作を味わっている!思い返せば香村さんはアキバレンジャーの頃からそうだったし、新しいプリキュアも2話目にしてすでにそうなので、これが香村さんの作る料理の味であり「消化管通過性」なんだろうな……。
私にとっての「鉛」は「快盗たちが大切な人と距離をおいている」現状がさらっと語られたことなんですけどね。隣に自分がいなくてもいいから、幸せに生きていってほしいってことなのか……。はあ……そうか……。透真……。初美花……。てことは魁利くんとお兄さんもか……。「戦隊シリーズで最もエゴイスティックな三人の快盗」とまでプロデューサーに言わしめたルパンレンジャーを、あのリアリティ・ラインの社会がどう断罪し、どう救済していくのか。または断罪や救済をせずに進んでいくのか。その答えはTV最終回でいったん保留にされ、今後のルパパトという作品の大きなテーマになっている。
※さらっと「今後のルパパト」とか書いてるけどそんなものがある保証はどこにもありません※
ルパンレンジャーの戦闘はあくまでも私事である。多くの一般的なヒーローの場合、自分の利益のためだけに悪を倒していた主人公たちが、しだいに誰かを守るために戦うことを覚え、最後には自分と関係のない赤の他人を守るために戦えるようになる。主人公は「真のヒーロー」に成長して物語は大団円となる。しかしルパンレンジャーは、その役割を最初からパトレンジャーに奪われている。その方向に向かって成長する道が閉ざされているのだ。これはルパパトというドラマが最初から持っている宿命である。TV本編におけるルパンレンジャーの戦いは、おそらく明確な意思を持って「私闘のまま」で終わらされた。何の関係もない他人や人類や地球のために戦う=公的な暴力は、パトレンジャーが戦うための強い動機として描かれ続けている。私人であるルパンレンジャーが「戦う必要がない」世界にするのがルパンレンジャー(とくに圭一郎)の信念なのだ。でもねぇ。この世に生きる全員が警察になれるわけではないのよ。圭ちゃんみたいに、警察がいつでも正しく市民の味方をしてくれるかと言えば、決してそうでもないのよ。警察が権力者におもねり無抵抗の市民に銃を向けてきた歴史だって、たくさんあるのよ。
私は、個人が「絶対的な悪」による理不尽に巻きこまれたときに、自らも武器を持って暴力で対抗する「覚悟」は絶対に必要であると思っている。これは『ねじまき鳥クロニクル』でも扱われているテーマだ。「邪悪で純粋な悪や暴力」はこの世に確実に存在している。ゼロにはならない。それらが自分や自分の大切な人に牙を向けてきたときは、自らの暴力性を開放してでも食い止めなければならない。世界は無菌ではないのだから、生きていくためにその覚悟は必要である。そうでなければ悪人たちに骨の髄までしゃぶられてしまう。そう私は思っている。だって、実際にベビーカーに野次を飛ばす見知らぬ人や(こちらを弱いと見てる)、何も考えず痴漢してくる人、子供を無差別に攻撃してくる人というのは存在するのだ。子供の生命や尊厳を守るためならば、私はそいつらを返り討ちにして殺す覚悟がある。その覚悟がなければ子供を守れないし、端的に言えば子供を育てることすらできない。私の子供たちにも「大切な人のためならば命をかけて戦える人間になりなさい。そういう瞬間は人生の中で1,2回あります」と教えている。その覚悟がなければ自分を守ることも、大切な何かを守ることもできない。だから私は、快盗への必要以上の断罪描写に共感できない。私は自分の息子に「恋人が化け物に襲われたならば、すべてを投げうって恋人を取り戻しに行ける人間」になってほしいのだ。透真くんには幸せになってもらわねば困る。
世界は完璧ではなく、すべての人間が警察になって公的に認められた暴力を行使することはできない。「この物語の世界観の中では快盗の手段はエゴイスティックな私闘であり、断罪されなければいけない」というのならば、それもよかろう。フィクションだから。でもその断罪には必ず救済の描写がセットで必要になる。
まずTV最終回において、大切な人たちが自分も快盗になることによる「救済」があった。家族からの救済だ。今回の映画でパトレンジャー(親しい友人かつライバル)による三者三様のゆるやかな「救済」が見られた。魁利くんや透真を見逃し、彼らの生活を気にかけ、コーヒーを飲みながら穏やかに語り合い、躊躇せず共闘する姿勢がそれである。それに対する快盗の答えも描かれている。今回の映画の中で、ルパンレンジャーは警察の装備を狙う素振りをまったく見せない。それどころか変身する時間を極力少なくして、なるべく戦闘しないようにしている。これはルパンレンジャーなりの、パトレンジャーの信念に寄り添った行動と思いやりだと思う。物語は少しずつ進んでいるのだろう。実際は相変わらず物の少ない廃墟みたいな事務所に一人たたずむ魁利くんを見て私は笑ってしまったけど。大丈夫か、彼。そこ寒くないか?まぁ結局は「死者再生」という大きなタブーに挑むノエルとルパンコレクションがどうなるのか?という議題がいまだ残っていて、その結論が出ないとルパンレンジャーの断罪も救済も完了しないんだけどね!今後の展開次第だな!
※さらっと「今後の展開」とか書いてるけどそんなものがある保証はどこにもありません※
さて、ここからは私事である。放送終了当時に3歳だった次男は、4歳になった。彼は映画を見終わって自宅に帰ると一目散にルパパトの玩具が入っているおもちゃ箱に向かった。そして「とりがー!とりがー出して!」と言い出した。彼がルパパトのロボット玩具で遊びたがるのは本当に久しぶりである。放送が終わった番組のおもちゃは、どうしても出番が少なくなるのだ。私は彼のためにルパパトのロボ玩具をざっと床に広げ、しばし様子を眺めていた。
次男は当時、ひとりでルパパトのロボットを組み立てることができなかった。手の大きさも足らず、握力も足らず、ロボのジョイントをつけ外しすることができなかったのだ。彼はいつも必死で兄にロボの組み立てを頼んでいた。1年経った彼は成長し、自分で好きなようにロボを組み立て、ばらすことができるようになっていた。すごい!成長している!母は子の成長を感じ心の中で感涙を流していた。しばらくすると彼は自力で、一人でロボを組み上げた。4歳男児が人生で最初に自分一人で組み立てたロボがこれである。
「けいさつのろぼ!」

私は驚愕した。サイレンパトカイザースプラッシュ。テコ入れのせいで映像ではいまだに出ていない、でも、もしこの映画に巨大戦があったならばようやく見られたかもしれない幻の形態、サイレンパトカイザースプラッシュ。適齢期男児が初めて自分の手で作ったマシンが、サイレンパトカイザースプラッシュ。ああああああ!!この瞬間に、私の中のルパパト玩具戦争は個人的終戦を迎えた。
「警察のおもちゃをすべて快盗にまわす」という物語を完全無視した支離滅裂なテコ入れに、くやし涙を流した現場関係者は多かっただろう。きっとみんな悔しかったはずだ。でも、安心してほしい。4歳児にはきちんと伝わっている。きちんと当事者に物語は伝わっているよ。彼らは物語をきちんと理解している。当時テコ入れを決めた上層部の人間たちよりも、子供たちのほうがずっとずっと物語の真髄をよく理解している。あんな決定をした大人たちは、消費者である子供を完全になめきっていたのだろう。そうでなければあんな支離滅裂で脈絡を無視したテコ入れを「是」とするはずがない。子供を馬鹿にしてはいけない。
これは物語をあきらめなかった制作者たちの勝利である。香村さんの粘り勝ちだ。決してめげなかった、心が折れなかった、関係者の皆さんの努力のたまものである。ルパンレッドの姿で「圭ちゃん」と呼びながらスプラッシュを手渡す魁利くんが見られたこと、腕に消化器がついたパトレン1号の姿を見られたこと、サイレンパトカイザースプラッシュを(映像で見てないにも関わらず)4歳児が組み立てたことによって、私の中のルサンチマンはきれいに浄化した。待望のスーパールパンイエローとスーパーパトレン2号も見られたしね。当時不自然に消されていた「超!警察チェンジ!」の音声も大画面でしっかり聴けたし。感無量だよ!
この映画に巨大戦がなかったことに文句を言っている大きなお友達の皆さんは、今すぐサイレンパトカイザースプラッシュを作りましょう。投げ売りされてるトリガーマシンを今すぐ買ってサイレンパトカイザースプラッシュを作りましょう。そしてロボ戦しましょう。Amazonで今ならDXサイレンストライカー980円、DXトリガーマシンスプラッシュ1849円、DXグッドストライカー1613円、あと一台は値下げしまくっているお好きなビークルを一つクリックして、完成!サイレンパトカイザースプラッシュ!ブーンドドドドドドドド!バンダイも儲かるし小売の在庫もはけるし君の欲求不満も解消できるし、一石三鳥だよ!
三谷幸喜さんの息子さんの第一声は「楽しかったあああ」だったそうだ。4歳次男は「また見たいねー!」だった。「もう一回来ようね―!」と言う彼の笑顔は輝いていた。短い時間で様々なヒーローが出てくる構成は非常にYoutubeっぽく、今どきの子供向けだと思う。盛りだくさんの「楽しい」の波状攻撃。子供は気に入った映像を何度も繰り返し見る。だからYoutubeの再生回数ランキングは子供向けばかりになる傾向がある。この映画の後半はまさにそれ。様々な人気コンテンツが融合したキラやばな波状攻撃は非常に楽しく、Youtubeっぽかった。適齢期の子供は長い映画の後半に集中力がきれてダレてしまうから、この構成はとてもいいと思う。こりゃ子供は何度だって見たいだろうな。リロードマーク連打しまくりだな。ちなみに映画は結局計3回見た。はやく円盤がほしい。
そして、残念なことにあれだけ盛りだくさんの内容で完成度の高い作品を見せられたにも関わらず、映画が終わったあとの私の頭はいつも「キラメイピンク最高に可愛い。やばいどうしよう。超好み超好み超好み。めっちゃタイプだ!!!」で占められてしまう。私は本当にどうしようもない。
だってさ、確かにああいうタイプの女医さんっているんだよ。「お上品爆弾」を炸裂させて周囲から浮上するタイプの有能な女の医者。46歳くらいで黒髪で品のいい服とブランドの白衣を着て、非常に可愛らしい外見と仕草で、マイナー科の准教授や医局長や科長をやってたりする。そう46歳くらい。46歳くらい……。約半分の年齢(設定23歳)にしてあの境地に達しているとは、キラメイピンクはよほど強いキラメンタルの持ち主に違いない。今から1年間が楽しみである。(2020/2/26)
こんな私でも、新型感染症が流行しているときは病院へ向かう足が重い。アフリカでエボラ出血熱が流行したときも同じ憂鬱を感じた。2014年である。今回はそれよりもずっと身にせまる危機である。憂鬱だ。間質性肺炎って苦しいんだよなぁ。あまりに憂鬱で、私はいよいよかばんの中に初美花ちゃんのぬいぐるみを入れて出勤するようになった。つかさ先輩のようである。彼女もきっと、命を危険に晒し続ける現場で働くプレッシャーをぬいぐるみで解消しているんだろう。私が感染症で死ぬのはしかたない。医者は患者から病気をもらって死ぬ。古今東西、そういうものだ。だから私が死ぬのは覚悟している。でも、子供にうつしたり家族にうつしたり友人や同僚にうつしたり患者さんにうつしたりすることは耐えられない。恐ろしい。足がすくむ。それでも私は病院へ行く。
医者が致死的な感染症にかかっている患者の前に立てるのはなぜか。それは「知識の鎧」を身にまとっているからである。「自分にはうつらないはずだ、それだけの準備と対策をしている」という確信が持てるから、我々は病原体に対峙することができる。科学的知識に基づき、その知識を実践するための医療資源が潤沢にあって(清潔な防護具、つまりガウンやマスクやフェイスシールドや手袋)それらを適切に使用できるならば、「自分の身は守られている」と信じることができる。それは「正しい医学知識」でできた物理的、かつ心理的な鎧である。科学的に正しいと確信できるだけの知識があるから、恐怖心をぐっと抑えられる。そうでなければ、自分を殺し家族にも危害を加えるかもしれない病原体の前にこの身を晒すことなどできない。名誉欲や使命感や高給だけでそんな無謀なことはできない。「私は、私自身のこの身体は、私が必死に勉強し信じてきた医学的知識によって確かに守られている!大丈夫だ!」と、他の誰でもない自分自身の脳で確信を持つしかない。それがなければ、病院に出勤することすらできなくなる。恐怖で逃げ出したくなってしまう。「インフルエンザウィルスはアルコールで無効化できる」という確信がなければインフルエンザ患者の診察はできない。「麻疹は予防接種で抗体がついていれば大丈夫。私には抗体がついている」という確信がなければ小児科や皮膚科の外来はできない。「院内感染となる耐性菌が出てもスタンダード・プリコーションを守っていれば大丈夫」と知っていなければ老人介護施設で働くことはできない。様々な病原体に対して毎日生身で立ち向かっていくための「勇気」は、「科学的で正確な知識」からしか得られないのだ。世界中の医者が今そうやって生命の根源的恐怖と戦っている。武漢で続々と亡くなくなっている医者に対して、他人事でいられる医者など世界中のどこにもいない。みな明日は我が身だと思っている。武漢で亡くなっている医療者はすべて私の未来だ。世界中の医療従事者がそう思っている。2003年にSARSを新型感染症と初めて認定したイタリア人医師カルロ・ウルバニ氏はSARSで死に、COVID-19を世界で最初に報告した李文亮医師もCOVID-19で死んだ。
自分の身を守る鎧は自分の医学的知識しかない。だから、その防具は他の誰でもない自分の力でメンテナンスしなければならない。戦国武将の侍の鎧や刀と同じである。他人に任せることはできない。自分の目で見て調べ、自分の脳神経回路で確信したことしか、医者は信じない。そういう意味で医者は非常に個人の独立性が強い。もちろん、知識が独善的にならないように私たちは絶えず医療者同士でディスカッションをする。この文章も、見知らぬ誰かへのディスカッションのつもりで書いている側面がある。2020年2月中旬、世界中の医者がダイヤモンド・プリンセス号の現状について自分で調べ、強い関心を寄せていた。もちろん私もそうであった。
私たち――船に乗っていない医者たち――は、ずっと「なぜダイヤモンド・プリンセス号の中でこんなに感染が拡大しているのか」と不思議に思っていた。もちろん、最初に疑うのは「それだけ感染力が強い」新種のウィルスである可能性だ。未知の新しいウィルスなんだからその可能性も十分ある。感染症対策の初歩である標準予防策(スタンダード・プレコーション)が行われても感染してしまうウィルスならば、正直に言うと、打つ手が限られてくる。患者さんから医療者への感染や院内感染を確実に防ぐことが非常に難しくなる。その次元の感染力である可能性を、みなが考えていた。そうすると、医療者の次の目標は「世界中に広まっていく速度をできるだけゆっくりにしていくこと」になってしまう。その間に特効薬やワクチンを即急に作る努力を重ねる。そもそも、2003年のSARSコロナウィルスの流行から17年たっているのにいまだワクチンも治療法も確立できていないのだから、コロナウィルスってのは変異が早い厄介なウィルスなのだ。グローバル社会におけるウィルス感染の広がりの速さに追いつくことができるだろうか?医療の打つ手よりもウィルスの広がりの方が早い場合は、「人類全員が感染したあとに生き残った人類で新たな歴史を作っていく」帰結になってしまう。実際そうなってきた歴史は、ある。スペイン風邪もそうだったし、新型インフルエンザのときもそうであった。ニホンオオカミはおそらく明治時代の開国で輸入された狂犬病ウィルスとジステンパーウィルスによって絶滅した。
つまり私たち医者はみな「感染症のスタンダードな対策であるスタンダード・プレコーションまたはそれ以上の対策がダイアモンド・プリンセス号では行われている」と思っていたのだ。だってスタンダードだし。そこらへんの民間病院で院内感染の対策が必要な感染症が出ちゃった場合にも、ごく普通に日常的にやってることだし。まさか今の日本で、世界中が注目している新型感染症に対して、スタンダード・プレコーションをやっていないはずはないでしょ!!!!そう思っていた。のんきにも信じ込んでいた、と言ってもいい。
しかし実際は違った。実際はスタンダード・プレコーションどころか、それ以前の「レッドゾーンとグリーンゾーンのすみ分け」すら行われていなかった。愕然とする事実である。それを私は岩田先生の動画で初めて知った。私の率直な感想は「なーんだ、そうか!それじゃあウィルスが感染拡大するのは当たり前だ!」であった。「スタンダード・プレコーションが行われているのに院内感染を防げない」「スタンダード・プレコーションが行われているのに3500人中600人超が感染した」という、非常に強い拡散力に私はおののいていたのだ。その認識はずれていた。「スタンダード・プレコーションどころか不潔と清潔の区別すらやってない環境でウィルスが拡散した」これは至極当然の話である。医学的には当たり前の事実が衆目にさらされただけだった。科学的には朗報、とさえ言える。だって「ダイアモンド・プリンセス号での拡散はCOVID-19のあまりに高い感染力を証明している」わけではなかったのだから。COVID-19の感染力の評価は私の中でいったん保留となった。
もちろん疫学という学問において、この一件は歴史に残る大失態である。14日間以上もの間、日本政府に言われたことを信じて脱走もせず暴動も起こさず船に閉じこもってくださった皆さんの苦労がこれでは浮かばれない。ダイアモンド・プリンセス号の名が公衆衛生と感染症学の教科書に永遠に残ることはすでに決定している。この後長期にわたって、世界中から様々な言語で様々な論文が書かれる。乗客全員の身元が確定し保証されている(社会的地位の高い人が多い)ゆえに追跡調査が非常にしやすいこと、世界各国の乗客から取れる確かな証言(つまり世界中の国と言語で論文が書ける)、時々刻々とアップされた船内写真の多さ(どれも隔離が全く実施できていないことの十分な証拠写真となっている)、どれも疫学的研究にふさわしい。世界中の医学論文で検証され続けることはもう決まっている。きらびやかな外見とキャッチーな名称は、その知名度にさらなる拍車をかけるだろう。
※ 参考例:2003年のSARSコロナウィルス拡散の疫学調査。香港のホテルに宿泊した中国本土の内科教授(その後SARSによって死亡)が、たった一晩の宿泊で周囲の部屋に広めたエリアの図。ダイヤモンド・プリンセス号においてもこのような検証が今後世界中で行われていくであろう。

船の状況は岩田先生が動画を発表したからこそわかった事実である。そう、事実。科学的事実だ。サイエンスである。船内にいる乗客がアップしている写真や、船内にいるアメリカ人医師の証言からも先生の言っていることが科学的に事実であり真摯な内容であることは一瞬にして十分に確認された。岩田先生の行動の揚げ足を取ることは非常にたやすい。先生もそんな事はわかりきっていただろう。それでも、先生は科学的正しさと、患者さん(この場合は船中の人たち)の健康と生命を優先した。そして正しい見識を最も早い方法で世界に広げた。ウィルスは待ってくれない。「船の中はレッドゾーンとグリーンゾーンのすみ分けすらやっていない」「だからウィルスが拡散した」「きょう船から降り世界中に帰国する人たちはウィルスを保有している可能性が大いにある」という科学的にゆるぎのない事実を世界中の医者に届けた。これは何よりも公衆衛生的に重要なことである。科学的で正確な情報を迅速に流すことが、感染症対策において最も重要だ。一番ダメなのは隠蔽すること。これはかえって感染を広げる。
岩田先生は感染を広げないこと、そして何よりも、船内の人たちの生命と健康を第一に考えている。私たちの敵はウィルスである。人間でも官僚組織でも政治スタンスでもない。国籍でもオリンピック開催でも船に乗るための手続きでもない。それらで争うことは、サイエンスの徒である我々医療者にとってすべて意味のない場外乱闘である。彼らの舌戦は私のやっている野球とは何の関係もない。それよりも、岩田先生が正確で迅速でプリミティブな情報を流すことができなくなったら、それは非常に困る。世界中の医者が困るんだよ!我々のウィルスとの一対一戦争の邪魔をするのはやめてくれ!!!
私は、これだけ国際的に信用が落ちた日本という国の公衆衛生の評価を上げるための唯一の方法は、「今からでも遅くないから三顧の礼で岩田先生をダイヤモンド・プリンセス号に招き入れ、感染症対策の最高責任者にする」ことだとさえ思っている。まあ、ないだろうけど。
私は研修医の頃から岩田先生の本で感染症を勉強している。岩田先生は日本一の感染症の専門家だと、私はずっと思っている。ダイヤモンド・プリンセス号の動画をもって、先生は世界一の感染症の専門家になった。たとえ先生が現職を追われることになったとしても、世界中の大学が感染症学の教授の席を用意して岩田先生を招聘するであろう。私はそれを確信している。
だって先生は現場で働く世界中の医者全員の脳に「正しい知識」を配ってくれたのだ。ダイヤモンド・プリンセスは汚染ゾーンの隔離すらしていないと。スタンダードな感染対策どころかその何十歩も手前の状態であったと。そして、そこで暮らしていた人たちがあなたの国の空港に帰ってくる、と。その知識を持っているか否かで、各国の医師の取る対策はまるで違う。おそらく彼らのうちの幾分かがウィルスを持ち帰る。そういう目で管理しなくてはならない。ダイヤモンド・プリンセス号帰りの人が「一般人よりも多くの審査をかいくぐった、感染の可能性がより低い人間」になるか「最低でも2週間の隔離が必要な人」になるか。これはぜんぜん違うのだ。岩田先生には、あの日あの時(船からの下船が始まる直前)に世界中に科学的に正しい知識を早急に配る必要があったのだ。
私たちは毎日生身を晒して、ウィルスという「敵」と戦っている。ウィルスだって私だって命がけだ。殺すか殺されるかの勝負である。私は日本に住む日本の医者として、岩田先生を称賛する記事を挙げなければならない。本当はルパンレンジャーVSパトレンジャーの新しい映画でどれだけ初美花ちゃんが美しく成長していたかについて書きたくてたまらないのだが、その時間はなくなった。いつか必ず書く。書いてやる。
感染症において岩田先生の行う行動であるならば間違いなく医学的にも科学的にも正しく、患者さんのためになるという確信を、他でもない私自身が持っていたからこそ、私は瞬時に動画を信じることができた。それは私が先生の感染症の教科書を研修医の頃からずっと読み、今回の新型コロナウィルス感染においても先生のブログを随時読んでいたからである。書籍にはそういう力がある。私は岩田先生のことを知らないし、先生も私のことを知らないけれど、岩田先生は研修医の頃からずっと私の感染症の「先生」だ。感染症において岩田先生と自分の意見がくい違うのならば、私は自分の意見など瞬時に投げ捨てて先生の意見を採用する。だって、先生の方が感染症については圧倒的に詳しいから。それが「専門」である。感染症に関して岩田先生にコンサルトできるなんて、有り難くて涙が出るレベルなのだ。厚生労働省がなぜそうでなかったのか、私にはわからない。
というわけで、私は私自身を守るために「知識の鎧」を毎日、自分の手で作りあげる必要がある。COVID-19の国内感染状況と、各自治体の打ち出す対策と、中国からの最新論文と、同じコロナウィルスであるSARSの過去の動勢について勉強しなければならない。状況は刻一刻と変わる。水際対策は失敗した。日本における新型コロナウィルスはもう市中感染症として対策しなくてはいけない。それは東大も日本環境感染症学会も同じ見解である。私もそう思う(それはそれとして水際対策としてのダイヤモンド・プリンセス号の環境改善と評価はきちんと必要である)。
※日本感染症学会と日本環境感染学会の出したPDF。
新型コロナウイルス感染症(COVID-19)―水際対策から感染蔓延期に向けて―(2020 年2 月21 日現在)
すでに感染蔓延期。その通りだと思う。偽陰性(本当は感染しているのに、検査で+が出にくい)が多いことはCOVID-19の管理を非常に困難にしている。結果が陰性でも感染してないという確定ができない。
※当時のSARSの記事。
COVID-19は当時のSARSコロナウィルスよりも潜伏期間が長く、致死率が少ない印象。同じコロナウィルスだけあって臨床症状はよく似ている。SARSコロナウィルスの主な死因はARDS。感染者の中からARDSになる人と軽症ですむ人、その分岐点はどこにあるのだろう?当時も不明であり、現在のCOVID-19でも不明だ。どうして子供と女性はARDSに(比較的)なりにくいのだろう?どうして高齢者ほどARDSになるの?そして、どうしてSARSの院内感染率は高かったのだろう?人工呼吸器管理時のエアロゾルなのか?
とりあえず2020年2月18日現在、検査はPCRしかなく、そのPCRも保健所を通じてお伺いを立て、保健所のOKが出た症例しか検査できない状態であるのはなんとかしてほしい。そもそも「新型コロナウィルス疑い患者の要件」※※が、市中感染フェーズに移行した東京の現状に追いついていない。病院が病院だけの判断で迅速に直接の検査ができるようにしないと、もう間に合わないと私は感じている。
※※ 現状の「新型コロナウィルス疑い患者の要件」
「新型コロナウイルス感染症の疑い患者の定義」
次のいずれかに該当し、かつ、他の感染症又は他の病因によることが明らかでなく、新型コロナウイルス感染症を疑う場合。ただし、必ずしも次の要件に限定されるものではない。
1)発熱または呼吸器症状(軽症の場合を含む。)を呈するものであって、新型コロナウイルス感染症であることが確定したものと濃厚接触歴があるもの
2)37.5℃以上の発熱かつ呼吸器症状を有し、発症前14日以内に中国湖北省に渡航又は居住していたもの
3)37.5℃以上の発熱かつ呼吸器症状を有し、発症前14日以内に中国湖北省に渡航又は居住していたものと濃厚接触歴があるもの
4)発熱、呼吸器症状その他感染症を疑わせるような症状のうち、医師が一般に認められている医学的知見に基づき、集中治療その他これに準ずるものが必要であり、かつ、直ちに特定の感染症と診断することができないと判断し(感染症法第14条第1項に規定する厚生労働省令で定める疑似症に相当)、新型コロナウイルス感染症の鑑別を要したもの
鳥取県のサイトより
まず「COVID-19疑い患者」になるためにこの4つの厳しい「疑い要件」が必要である。これがないと一般診療に回されてしまう。検査の「依頼」すら出しにくい。さらに「診察した上で保健所へ報告し」「保健所と自治体がOKを出した例にしか」PCRができない。これではあまりに遅い(そもそも中国全土じゃなく2省だけっていうのも疑問符がつくのだが)。明日以降、熱発の肺炎患者でインフルでもマイコでもないってときいったいどうすればいいんだ?臨床症状だけから検査なしで診断するのは御法度でしょ?個室入院で様子見なのか?肺炎になってなければ家庭隔離?
※2月23日、近いうちに各病院でもPCRできるようになるというニュースあり。よかった。試薬はよ!
※実は2月17日に厚労省のお達しがPDFで出ていて(これはよくない周知のやり方。必要な情報までたどり着きにくい)「発熱かつ呼吸器症状かつ入院を要する肺炎が疑われたとき」「医師が総合的に判断した結果、新型コロナウィルス感染症を疑うとき」も検査対象者になっていたらしい。うーん、これは保健所によって対応にばらつきが出ているな?
もう我々は、冬に外来に来る熱発患者は全員インフルエンザにかかっているものとして対策していたのと同じように、外来に来る感冒症状の発熱患者全員がコロナウィルスを保有していてもおかしくないと「仮定して」対応しなくてはならない。それは何よりもまず私自身が伝染らないために。気が重い。防護具が潤沢な環境ばかりでもないからなぁ。古来より、医療従事者は患者から病気をもらい、流行病で死ぬ。感染症のリスクが高いからこそ、医療従事者には高い賃金と社会的地位が保証されていると言っても過言ではない。わかってる。医者は患者から病気をもらって死ぬ。わかってる。ああ、でも。気が重い。私は今日も初美花ちゃんのぬいぐるみをそっとかばんに忍ばせて病院に向かう。これで勇気が足りなくなったら次はヒーリングっどプリキュア・キュアタッチ変身ヒーリングステッキを買おう。そうだ、今季のプリキュアは医者だ。しかも脚本は香村さんだ。しかも敵はナノビョーゲンだ。ナノサイズの病原体といえばウィルスである。プリキュア全員女医というコンセプトはおそらく医学部受験女子差別問題に対して東映が出した明瞭で力強い回答だと私は思っていたのだが、まさか病原体と戦う設定がここまでタイムリーな議題になってしまうとは制作陣も予想してなかっただろう。キラメイピンクも医者である。これはもう、私がプリキュアになった、私が戦隊メンバーになったと言っていいのではないか!?そうだ。きっとそうに違いない。(2020/02/24時点の私見。現状は刻々と変わります)
本日は寒くお足元も悪いなか、当サークルにお立ち寄りいただきありがとうございました。
帰宅後は暖かくしてお過ごしください。私は感冒を引きました。
次のコミケはオリンピックのため5月開催になります。
「ねじ子アマ」は5月4日に参加予定です。
来年もよろしくおねがいします。
それでは皆さまよいお年を。
私は今日、これから、12/31がオタク活動に全力で従事できる唯一の日になります。BEYOOOOONDSちゃんレコード大賞最優秀新人賞おめでとう!ハロプロ楽曲大賞だ!カウントダウンコンサートだ!いえーい!いつも12/31がコミケだったから、大晦日におたく活動ができるのが新鮮だー!一日分のご褒美をもらった気持ちでハロヲタしてきます。(2019/12/30)
2019/12/30 東京ビッグサイト
南ハ-18a「ねじ子アマ」
★新刊
- 『現着!QQQ 2 ―病院に着く前に―』A5/96p/1000円 紹介はこちら。
★既刊
『平成医療手技図譜』
- 針モノ編 改 A5/148p/1000円
- ICU編 A5/116p/1000円
- 精神編 A5/116p/1000円
- 心療内科編 A5/148p/1000円
- 手術編 改 A5/116p/1000円
その他の既刊
- 『救外戦隊ネラレンジャー』A5/80p/600円
- 『現着!QQQ ー病院に着く前にー』A5/96p/1000円 紹介はこちら。
いずれも少部数ずつ持ち込んでいます。机の上にない場合はお声掛けください。
※なお、商業誌『ヒミツ手技』『ぐっとくる』と同人誌『平成医療手技図譜』はこのような関係になっています。わかりにくい方はこちらを見てチェックしてください。

2019/12/30 コミックマーケット 南4ホール ハ-18a ねじ子アマ
★冬コミ新刊 『現着!QQQ 2 ―病院に着く前に―』96ページ 1000円

マンガと文章の本です。
昨年の冬コミで出した『現着!QQQ』の続きです。
一話完結なので『2』だけでも読めます。『現着!QQQ』も搬入しているので、同時に購入することもできます。
救命救急士さん・救急隊員さん向け実務情報雑誌『プレホスピタル・ケア』2011年8月号~2014年2月号にて連載した原稿です。今回は第10話から16話までを加筆修正してまとめ、さらに「オチ」として17話を描き下ろしました。
現着は「げんちゃく」と読みます。「現場に到着」という意味です。QQQはQQQuesitonであり、仮面ライダーOOO(オーズ)が大好きだった頃に描いたことのあかしでもあります。
119番が鳴り、救急車が呼ばれ、救急隊が現場に着いてから病院に着くまでの間。短いようで、当事者には永遠のように長く感じられるあの時間。その間に必死に頭を働かせて考えること。そんな内容を漫画とクイズとその解説の文章としてまとめました。救命救急士の秋山くんと、その幼なじみで特撮オタクの外科医・辻先生による掛け合い医療マンガをお楽しみください。
収録内容はざっとこんな感じです。
(目次自体がクイズのヒントになってしまうので、順番は本編と変えています)
・小児の頭部外傷
・高エネルギー交通外傷
・透析患者の救急
・頚椎損傷
・風呂場での急変
・急性胃腸炎
・失神発作の鑑別 etc
以下サンプルです。第11話をまるごと載せました。↓



おまけ。医療従事者向けノロウィルスお掃除方法も載ってます↓

(2019/12/29)
冬コミの修羅場が終わった。今回は特に「実生活」と「医業」と「執筆」の三つの兼ね合わせがむずかしかった。さらにそこに家族のインフルエンザと溶連菌と自分の腱鞘炎と家事と育児とサンタさんのお手伝いとカントリー・ガールズ全員卒業(「なんの理由があって私の可愛い娘たちがこんなひどい目にあわなきゃいけないんだよ!おかしいだろ!」って憤りが止まらない)と、ガラルチャンピオンリーグとポケモンカレー図鑑完成とリングフィットトレーニングが重なって、死ぬかと思った。
スーパー戦隊Vシネマ「リュウソウジャーVSルパンレンジャーVSパトレンジャー」の一報があったから私は頑張れた。これがなかったら頑張れなかった。脚本が香村さんと荒川さんの共作で嬉しい。戦隊Vシネマが全国ロードショーに戻ったことが嬉しい。快盗たちの後日談が描かれていそうな予告であることが、飛び上がるほど嬉しい。原稿用紙に埋れて徹夜しながら、私はこの動画を100回は再生した。あぁ、この数ヶ月夢にまでみたルパパトの新規映像だ!
そしてサンタさんからもクリスマスプレゼントが来たよ!ありがとうサンタさん!良い子とはいえない私の元にも、サンタさんが来てくれた!やったあ!
……脊髄反射で予約注文したあと商品説明をじっくり読んでるんだけど、初美花ちゃんの要素が全然ないな(小声)ブロマイド?にいるかもしれないくらい?
戦隊ブログvol.107 ルパパトのメモリアルアイテム、予約受付開始! | スーパー戦隊おもちゃウェブ | バンダイ公式サイト
商品開発者さんのライナーノーツがとても熱くて嬉しい。新規音声収録がたくさんあって嬉しい。私の一番好きな劇伴である『快盗戦隊ルパンレンジャーのテーマ』がボタン一つで流れるだけでも1万円の価値はある。やったね!
しかし初美花ちゃんの要素が全然ないな(小声)
戦隊メンバー全員分の音声を少しだけでも入れてくれていいのよ、ほら、変身時の名乗りとかさ。決め台詞もいいね。一言だけでもいいから、なにかないのかな。
……プレミアムバンダイはいつからか、私達ハロヲタの財布を狙わなくなった。放送開始初期はWヒロイングッズだの何だのを用意して私たちを狙い撃ちしていたというのに、今はまったくない。
これはWレッドとノエルにたくさんの新規ファンがつき、金銭化のめどが立っている(つまりそっちの方が儲かる)ということなんだろう。これはこれで素晴らしいことだ。
Wヒロインのみが出演したてれびくんDVD『ガール・フレンズ・アーミー』はその販売形態とあまりの高額ぶりに、特撮ファンからもハロヲタからもかなりの反発を招いた。
癒してハロプロ てれびくんのルパパトヒロインDVD 本編16分で6500円っておかしくない?
ハロプロニュース : 【工藤遥効果】子供の味方「てれびくん」がおっきなお友達向けの商売に手を出してしまう
工藤ファンの中からも「あんな商品をあんな値段で買ってはいけない」「あんなぼったくりDVDでもファンは買う。足下を見られてるんだ」「あんな値段でDVDを買った奴がいるから、小学館は調子に乗って15000円もする超全集を出すんだよ」という声も聞いた。
それらの意見は正しい。きっと正しい。私も当時、怒髪が天をついた。私は古い人間なので10年前に『てれびくん特せい 仮面ライダーオーズ超(ハイパー)バトルDVDクイズとダンスとタカガルバ』(本編23分)を送料込で1250円で購入したことを、きちんと覚えている。つまり16分6,500円は明らかに高い。アイドルの映像商品の相場としてもありえないほど高い。ましてや子ども向けのお値段からはかけ離れている。全国の良心的な親御さんや特撮ファンが怒るのも当然だ。
ハロヲタすらも分断するような、そんな売り方はもう真っ平ごめんだ。おたくの財布を狙われまくって、足元を見られまくり、オタクの間でも激しく意見が割れてしまうような事態はもう二度とごめんなのだ。ごめんなんだけど。
……全然あてにされなくなると、それはそれで、嬉しいような、ありがたいような、少しさびしいような。(2019/12/29)

追記:クリスマスケーキは子どものリクエストで仮面ライダーゼロワン(プログライズキー付き)を選びました。スモークサーモンのサラダも作って食べたよ!

インフルエンザ療養中で暇を持て余していた長男のために、塗り絵を作ることにした。すでに解熱して体力は有り余っているものの、他人への感染力があるため外で遊ぶことができない状態の子供を退屈させないために、塗り絵はとても有益である。私も好きなファン・フィクションを描けてよい気分転換になる。一石二鳥だ。ちなみに台風で2日間家から出られない間も、この塗り絵は非常に役に立った。なんと言っても電源を使用しない。停電しても大丈夫。ていねいに塗っていると、そこそこ長い時間をつぶせる。親子の遊びとして最適だ。

「変身後も描いてほしい」と言われたので「るぱぱとぬりえ その2」も作った。金と銀の色鉛筆があると、より楽しい。
私は人体のデフォルメをするとき、四肢の末端を肥大させる癖がある。これは完全に手塚治虫先生の影響である。吾妻ひでお先生や内山亜紀先生も私と同じタイプであった。私の動物イラストの原点がテディベアやパンダのぬいぐるみにあることも一因なのだろう。とにかく手足を大きく描いてしまう。

ちなみに、現在における人体デフォルメイラストの流行は「手足の先端を細く小さくする」ことである。私も仕事であれば手足の先を細く小さく描くこともある。でも、自分が「可愛い!」と思うように描くとつい手足の先が太くなってしまうのだ。
「絵を描く」という行為には肉体的な喜びがある。特に、好きなものの絵を描いているときに感じる喜びは大きい。好きな対象の絵を描きあげたあと、全身が喜びで満たされるのがわかる。この前腕の筋肉に、この手掌と指に集まったたくさんの小さな伸筋群と屈筋群に、それらにつながる末梢神経と前頭葉に喜びが走る。ただじっと対象を見ることよりも、語ることよりも、関連グッズを消費するよりも、よりよく対象を理解し対象と溶け合うような感覚に満たされる。これは他では得がたい肉体的な喜びの体験である。プールでたっぷり泳いだ後に肌と筋肉が感じる、水と溶け合うような感覚。または緑の森の中を歩いた後に感じる心地よさと爽快感。それらに近いものを感じる。絵を描くことで私は対象を十全に咀嚼し、理解することができる。「絵を描く」ということは愛する対象を「理解する」ことであり、私がどのように世界を理解したかを「表に出す」行為でもある。描画以外では得られない高揚感を私はいま感じている、ルパンレンジャーとパトレンジャーの絵を描きながら。(正確には、医学の絵を描いているときにも私は同じ快感を感じている。絵を描きながら私は、このちっぽけな私は、人類の四千年の歴史とともに続く医学という学問の海に溶けて融合していくのだ。)

例えば私は初美花ちゃんのイヤリングやつかささんの前髪サイドの編み込みの構造に大きく注意が向く。資料をじっくり観察し、丁寧に書こうと心がける。それに対して、VSチェンジャーはもうできるだけ描きたくない。描写も適当になる。なんなら「しまった、どうしてVSチェンジャーを持つ構図にしてしまったんだろう。VSチェンジャーを描くのが面倒くさい!違うポーズにするべきだった!」とさえ思う。
ところが小学生の息子は、私が適当に描いたVSチェンジャーの構造のミスにすぐに気がつくのである。彼は塗り絵をしながら「VSチェンジャーが左右対称じゃない、おかしい」「オレンジ色を塗る部分がない、おかしい」「圭一郎の手の関節がおかしい。肘をひねってる。これじゃチェンジャー持てないよ?」という感想を持つのである(その通りであった)。VSチェンジャーに関しては、わざわざ本物のおもちゃを手元にもってきて赤いパトランプやオレンジのラインや黒い縁取りをわざわざ追加で描いていた。私はうろ覚えで適当に描いて満足していたのに!
それに対して、私が注力して描いた女子の髪型に関してはなんの興味もない。子「つかさ先輩の髪の毛の横、これなに?」母「編み込みだよ」子「なにそれ?そんなのあったっけ?」母「あったよ!ほら!(実際の写真を見せる)」子「あー、いらないよ。これ」という反応である。「いらなくねえよ!むしろ一番重要だよ!」という私の叫びも、彼には響かない。彼は人体の関節の構造とメカの細かい意匠にしか関心がないのだ。「絵を描く」という行為には「興味の違い」が如実に出ることがよくわかる一例である。興味の違い、つまり「世界を見つめる角度の違い」が露骨に出る。私が全力で注視した①まず顔を似せること、②髪型を似せること、③快盗衣装と警察衣装の細かい意匠を四頭身に可愛く落とし込むことに、彼はまったく関心がない。でもVSチェンジャーにオレンジ色のランプが描かれてないことは耐えられない。絵を描くということは対象をより知るということであり、対象に向いている興味が露骨に表に出てしまうことであり、その人が世界をどのように見ているかを(自らの意図よりもずっと赤裸々に)うつし出す行為である。絵を見れば、その人が世界をどう見ているかがわかる。
ちなみにその後、帰宅した次男は変身後のノエルがいないことに耐えられないらしく「エックスは!?エックスいるでしょ。かいて」としつこく食い下がられた。「あ、いや、活動初期ってことでどうですか?ノエルが来日する前の絵ってことで、よくない?だめ?」という私の意見は彼にまったく受け入れられなかった。しかもルパンエックスとパトレンエックスの両方を追加で描かされた。まったく、たとえ塗り絵であっても絵を描くということはその人が世界をどう見ているかを表出させる行為である。画家には世界が彼ら/彼女らの描く絵のように見えているのだ。(2019/10/20)

るぱぱとぬりえ
るぱぱとぬりえ その2
(ご自由にお塗りください)

ラバーストラップコレクション ルパンレンジャーVSパトレンジャー全8種類。
完全ランダム封入。
コンプリートまでの期待値は22個、正確には21.742857142857個です。
(なおそれでも期待回数内ですべてそろう確率は 64 %ぐらい)
今回は12個買ってみました。

さあ開封式です。

揃いました。やったね。8種類あるガチャを12回引いた場合コンプリートする確率は9.3306424096227%ですから、「よっしゃラッキー!」と叫んでいいでしょう。
「統計をやっていてよかった」と思うひとときです。

こちらは全20種のシール入りウェハースです。
完全ランダムならばコンプリートまでの期待値は72個です。でも大人ですから、大人らしく、大人買いつまり20個入りの一箱まるごと買いました。全種揃っていることを期待します。

よかった、揃いました。「大人になってよかった」と思うひとときです。
キュウレンジャーの皆さんはスコルピオ兄貴も含め、役者さんの美麗な顔面が映っています。ルパパトはガワのみですが、スタイリッシュでいい写真です。ウェハースが思ったよりも大きくて、なかなか食べきれません。詳細はこちら
さて、2012年にメダカカレッジ&大上先生と一緒に作った数学の新書『マンガでわかる統計学』が最近好調です。発売当初からAmazonでずっと上位をキープしているわりに、店頭ではあまり見かけない、かつみんなが読んでいるように見えてあまり言及もされない、不思議な動向の本です。Amazonでは長い間さまざまなジャンルでトップセールスを維持し、2019年10月現在、いよいよAmazonで「森皆ねじ子」と検索すると、医学書よりもこの本がトップに来るようになりました。恐ろしい。もう7年も前の本なのに、不思議です。「ものの売れ方」って本当に予想がつきませんね。売れるにしても売れないにしても、売れる時期にしても、一筋縄ではいかない。作者の思うようになんて少しも動いてはくれません。もちろん当時も全力で、「売れるように」というありったけの願いを込めて制作していたわけですが。正直、こんなにロングテールの商品になるとは予想していませんでした。ありがたく思います。
表紙の推移をここにまとめておきます。

最初。中がこれ↑で帯がこれ↓でした。

好評だったので帯が表紙に出世しました。↑

↑深帯、という名前の実質二重カバーになりました。『マンガでわかる統計学』は深帯にしてから非常に好評です。上品な新書っぽさがよいのでしょうか。ブック・デザインの大勝利。プロってすごいですね。

ちなみに表紙に選ばれた絵は表紙用に描いたわけではありません。マンガの中の一コマです。よく見ると細かいところに「あら」があります。狼の足が地面にめり込んでいたり、足首が奇妙な形の人がいたり、ウサギさんの身長がそれほど高くなかったり、なぜか先頭にねじ子がいたり。いやー、なんでこの絵が選ばれたのか、私にもわからない!でも!どんな小さなコマのどんな絵も、手を抜いて描いてはいけないってことだけは!わかる!いちど世に出したあとは、どんな使われ方をするかわかったもんじゃないから!まさか表紙になるとは、油断してた!(2019/10/10)
POARO / Once Upon A Time in AKIHABARA
2002年当時の秋葉原。
秋葉原もずいぶん変わった。この曲がリリースされた当時の私も「秋葉原はずいぶん変わったなぁ!」と思っていたが(URL)そのときからもずいぶん変わった。
この曲が出たのは、電気工学とパーツの街だった秋葉原にアニメキャラの看板が乱舞するようになり始めた時期である。自らがオタクでありながらも、私は街の変貌に困惑した。
「電車男」というテレビドラマが大ヒットし、秋葉原は「オタクの街」として一躍有名になった。美少女アニメキャラの看板が舞い踊り、メイドと地下アイドルが大量に集まって一大ムーブメントを作り、外国人観光客が押し寄せ、静岡から来た男が歩行者天国で通り魔事件を起こした。いまやそんな時代すらも過去になった。今の秋葉原にはもう、バスケットボールコートも石丸電気も紙風船もメッセサンオーもアソビットシティもアキハバラデパートも交通博物館もボウルズボールBBもない。再開発が進み、大型ビルがにょきにょきと生え、ラーメンとケバブとおでん缶しかなかった(だから「一食くらい食わなくても死なない」というPOAROのリリックが心に響いた)食事場所は格段に増えた。秋葉原にすらタピオカ屋が生えていて笑っちゃった。様々な国の観光客がポケモンやドラゴンボールや美少女フィギュアを買い漁りに来る、日本を代表する巨大エンターテイメント街になったのだ。
もちろんそんな周囲の喧噪は意に介さず、電気街としての秋葉原は存在し続けている。秋月電子と千石電子と謎のジャンク屋は相変わらず健在だ。ガード下のパーツ屋のたたずまいも変わらない。闇市だった戦後当時から存在するアダルトショップは、中国語で呼び込みの放送を流す観光客向けテンガショップに生まれ変わっていた。たくましすぎる。これらの店が存在している限り、秋葉原はきっと変わらない。
●ハロヲタ兼特撮おもちゃ好きのための秋葉原巡回ルート2019年版
秋葉原駅に到着→ラジオ会館を下から上へざっと流す(特撮関連商品があるのはハピコロ玩具、あみあみ、宇宙船、アキバのエックス、イエローサブマリンなど) → ジャングル2号館 → 千石電子 → 秋月電子 → カルチャーズZONE1階のらしんばん秋葉原店新館(特撮DX玩具とフィギュア) → 同じビル3階のTRIOカルチャーズZONE店でハロプロの中古商品を探す → まんだらけコンプレックスを上の階から下の階までざっと流す(7階に特撮DX玩具)→ 駿河屋秋葉原本店3階(おすすめ。特撮玩具がワンフロアにあり便利※1)→トレーダー本店で仮面ライダーの玩具とDVDチェック(扱いは少ないが相場より安い)→ 駿河屋アニメ・ホビー館3F(おすすめ。特撮玩具山盛り※2)→リバティ8号館(おすすめ。特撮玩具山盛り※3) → ハロー!プロジェクトオフィシャルショップ → 買いたいものがある場合は秋葉原駅方面へ戻る、特に戻る必要がないときは末広町駅から帰る。
※1※2 同じ駿河屋でも店舗によって値段が違うので注意。
※3 DX玩具は3階、ガチャガチャと食玩は7階にある。フロアが分かれているのが難点。相場より値段が高い。そのせいもあって古い作品の在庫が潤沢に残っている。商品の種類の多さは抜群で、「放送当時はこんなものを売ってたのか!」という古典作品玩具との様々な出会いがある。一回しか来店できない観光客が多い秋葉原という立地に合っていると思う。ゴーオンジャーのガチャガチャの炎神があんなに揃っている実店舗は初めて見たし、シンケンジャーやジュウオウジャーのスィングが今でも手に入るのなんて秋葉原でもここくらいだろう。
今日一番の収穫は、TRIOカルチャーズZONE店のハロプロのショーウィンドウにハロメンのフィギュアスタンドキーホルダーが全50体くらい並べられているど真ん中に、新木優子さんのサイン入り卓上カレンダーが鎮座されていたことです。可愛い女子に囲まれた新木優子さんは、満面の笑顔でとてもとても幸せそうに見えました。ディスプレイした人は、ハロプロのことも周辺文化のことも、完全にわかってるな。
放送当時品切れで手に入らなかったビルド&ルパパト夏映画のパンフレットと勇動パトレン1号とノエルのミニプラセットも手に入りました。やった。次の休みは勇動スーパーパトレン1号とミニプラVSXを自作しよう、そうしよう。(2019/9/6)
自由な時間が一日できると、私は今でもひとり秋葉原に行く。
秋葉原は夢の国だ。自分の大好きなアニメや漫画やゲームやアイドルや特撮の、フィギュアや写真や本や映像媒体や買い逃したグッズやコンプリートし損ねたコレクションアイテムを探すために、街を一日中くまなく歩きまわってしまう。薄汚れた雑居ビルに入り、狭い階段を登って、興味ないジャンルの商品の山をかき分けながらお目当ての棚にたどりつき、品揃えを確認し、商品の値段と状態と適正価格を調べ、かごに入れたり、棚に戻したりする。前の店の値段と比べて前の店のほうが安ければ買いに戻る。今の店が安ければここで買う。
秋葉原に行くと自分が歳をとったことを忘れる。自分の年齢も忘れ、自分の性別も忘れ、自分の職業も溜まった仕事も家事も家族構成も来し方も行く末も、何もかもを忘れて私はただの「消費者」になる。秋葉原を歩く私は完全に「無」の存在だ。自我を持った生命体ですらない。秋葉原で架空の世界の玩具を探す私は、完全なる世界の傍観者になる。
まんだらけの狭いエレベーターに乗りあわせた私たちは、さまざまな国籍のさまざまな人種のさまざまな性別のさまざまな年齢の人間だけれども、それぞれにみな無であり、それぞれみな「私」である。私みたいな人ばかりだ。「私は一人ではない」と、確かに私はそのとき実感する。私はあなたであり、あなたは私だ。夢中になっている対象はそれぞれ違うけれど、あの街の狭い雑居ビルのエレベーターに乗りあわせたあなたは私であり、私はあなたなのだ。誰も私のことを気にしない。私も誰のことも気にしない。どんな服であろうとどんなかばんを持っていようとどんな靴を履いていようと、どんな顔や体型や髪型であろうと、男であろうと女であろうと若かろうと老人であろうと、なにもかもすべてどうでもいい。そんなことより、これから行く店にどんなフィギュアとガチャポンと食玩と同人誌が置いてあるか。その方がずっと重要なのだ。
すべての目的地を回り、欲しいものを買い、今日は手に入らなかった商品を把握し、訪れるべき店もなくなったところで私はふと立ち止まる。お腹がすき、足も疲れ、行くところがなくなった私は我に返り、桃井時計を見上げる。そしてふと気が付く。私には何もないと。私の人生には何ひとつないと。人生には何もなく、私はこのまま死ぬ。何もないまま死ぬ。私は特別ではない。歴史に名を残すこともない。人類に貢献する仕事を成すこともない。何もないまま生き、何もないまま死ぬ。死ぬんだよ。そんな思いが去来する。目の前の看板の可愛らしいアニメ塗りの美少女は巨大な瞳孔をめいっぱい開きながら、その中には何も入れず、ただこちらに顔を向け微笑んでいる。
この感覚を感じるまで私はこの街を歩き、満足して帰路につく。私は肩に食い込むかばんの紐の重みだけを感じながら人混みとともに秋葉原駅の自動改札機に吸い込まれ、プラットホームへの階段を登る。このかばんの中身を少しずつ開封し、消費しながら私はこれからの一週間を生きていく。(2019/09/04)
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