Once Upon A Time in AKIHABARA<総論>
自由な時間が一日できると、私は今でもひとり秋葉原に行く。
秋葉原は夢の国だ。自分の大好きなアニメや漫画やゲームやアイドルや特撮の、フィギュアや写真や本や映像媒体や買い逃したグッズやコンプリートし損ねたコレクションアイテムを探すために、街を一日中くまなく歩きまわってしまう。薄汚れた雑居ビルに入り、狭い階段を登って、興味ないジャンルの商品の山をかき分けながらお目当ての棚にたどりつき、品揃えを確認し、商品の値段と状態と適正価格を調べ、かごに入れたり、棚に戻したりする。前の店の値段と比べて前の店のほうが安ければ買いに戻る。今の店が安ければここで買う。
秋葉原に行くと自分が歳をとったことを忘れる。自分の年齢も忘れ、自分の性別も忘れ、自分の職業も溜まった仕事も家事も家族構成も来し方も行く末も、何もかもを忘れて私はただの「消費者」になる。秋葉原を歩く私は完全に「無」の存在だ。自我を持った生命体ですらない。秋葉原で架空の世界の玩具を探す私は、完全なる世界の傍観者になる。
まんだらけの狭いエレベーターに乗りあわせた私たちは、さまざまな国籍のさまざまな人種のさまざまな性別のさまざまな年齢の人間だけれども、それぞれにみな無であり、それぞれみな「私」である。私みたいな人ばかりだ。「私は一人ではない」と、確かに私はそのとき実感する。私はあなたであり、あなたは私だ。夢中になっている対象はそれぞれ違うけれど、あの街の狭い雑居ビルのエレベーターに乗りあわせたあなたは私であり、私はあなたなのだ。誰も私のことを気にしない。私も誰のことも気にしない。どんな服であろうとどんなかばんを持っていようとどんな靴を履いていようと、どんな顔や体型や髪型であろうと、男であろうと女であろうと若かろうと老人であろうと、なにもかもすべてどうでもいい。そんなことより、これから行く店にどんなフィギュアとガチャポンと食玩と同人誌が置いてあるか。その方がずっと重要なのだ。
すべての目的地を回り、欲しいものを買い、今日は手に入らなかった商品を把握し、訪れるべき店もなくなったところで私はふと立ち止まる。お腹がすき、足も疲れ、行くところがなくなった私は我に返り、桃井時計を見上げる。そしてふと気が付く。私には何もないと。私の人生には何ひとつないと。人生には何もなく、私はこのまま死ぬ。何もないまま死ぬ。私は特別ではない。歴史に名を残すこともない。人類に貢献する仕事を成すこともない。何もないまま生き、何もないまま死ぬ。死ぬんだよ。そんな思いが去来する。目の前の看板の可愛らしいアニメ塗りの美少女は巨大な瞳孔をめいっぱい開きながら、その中には何も入れず、ただこちらに顔を向け微笑んでいる。
この感覚を感じるまで私はこの街を歩き、満足して帰路につく。私は肩に食い込むかばんの紐の重みだけを感じながら人混みとともに秋葉原駅の自動改札機に吸い込まれ、プラットホームへの階段を登る。このかばんの中身を少しずつ開封し、消費しながら私はこれからの一週間を生きていく。(2019/09/04)