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2019年ハロプロ楽曲ランキング(後編) ハロプロは本当に女の人生を救うのか

4位 高輪ゲートウェイ駅ができる頃には / CHICA#TETSU


明らかに松任谷由実『中央フリーウェイ』のオマージュである。私も若い頃、中央自動車道を走りながら「右に見える競馬場、左はビール工場~♪ってここのことか!なるほど!」と思った経験がある。しかも困ったことに恋人と乗っている車の中でそう思ったりするのである。おそらく現在の若い恋人たちも、電車に乗りながらこの曲の歌詞のように「右に泉岳寺、左に巨大な折り紙の屋根が確かにある!」と思うのだろう。彼らは車に乗らない、車を持っていないから。電車移動である。きっと電車から車窓を眺めてそう思う。そんな時代性を歌詞の中に封じ込めることも含めて、よくできた歌だと思う。この曲の賞味期限が非常に短いことを私は少し危惧していたのだが、そんなことはまったくなかった。高輪ゲートウェイ駅ができた後にも「高輪ゲートウェイ駅ができる前の空気」を思い出すためのトリガーにこの曲はなる。それだけの力がある。

5位 全然起き上がれないSUNDAY / アンジュルム


なんだこれ。すごいな。暗い。暗すぎる。土曜日の夜に失恋した、または失恋よりももっとひどい目にあった女性の日曜日の朝のお話。土曜の夜にいったい何があったの?

さっき「2019年は鞘師里保と工藤遥と田村芽実と和田彩花の年だった」と書いたように、今年は若いうちにハロプロを卒業したメンバーによる新しい挑戦が目立つ年だった。とすると現役ハロプロメンバーの中にも「私も早く次のチャレンジがしたい」「ここに長くいてはいけない」と感じる子が増えてくる。これは必然である。アンジュルムは和田彩花ちゃんの卒業以降、メンバーの卒業ラッシュが続いている。どの子も次の仕事や人生のステップを考え、25歳になる前に自分の意志で卒業していく子ばかりである。

カントリー・ガールズの意味不明な解体劇は「同じことを次は自分のグループにしてくるかもしれない」という不信感と恐怖心を娘。以外のすべてのメンバーとファンに植え付けた。「信用できない」「こんな恐ろしい場所に長くはいられない」と感じるのも当然だろう。モーニング娘。以外のグループのメンバーが「私はここにいてもこれ以上のチャンスを与えられない」と思ってしまうのもしかたない。だって、そうやってグループごとに扱いの差や、チャンスの優劣を付けてきたのは他ならぬ事務所なのだから。25歳以降の人生の指針を一切示さず、その後の人生を自分で切り開くように仕向けてきたのも事務所である。思春期の女子の自意識を満足させるだけの活動を現状でさせてあげられてないのならば、彼女らがハロプロという組織から飛び出していくのを止めることはできない。

彼女らの憧れでもあったBerryz工房と℃-uteの、25歳までがっつりアイドル活動を行ったメンバーの現状、そして早めに卒業した鞘師や田村芽実ちゃんや工藤の活躍を見ると、「定年までここにいてはいけない」「早く次のステップに進まないとその後の芸能活動のチャンスがなくなる」と若いメンバーが思うのもわかる。役者になるにも、26歳からでは配役のチャンスが減ってしまうようだ。もう正直に言っちゃうけど、道重さゆみと嗣永桃子が脈々とつないできた事務所のTVバラエティ枠を壊滅させるような岡井ちゃんの恋愛に私は困惑している。他人の恋愛に口を出すのは野暮だってわかってる。わかってるけど。仕事場の信頼関係も、先輩から受け継ぎ後輩へ譲るはずの椅子も、結構な力で破壊するタイプの恋愛だよ、あれは。

6位 ふわり、恋時計 / つばきファクトリー


ハロプロの女の子たちはある日突然、まったく悪意なく、威力の高いナパーム弾を一人で作り上げ、どこかに向かって投げることがある。爆撃された客席に死体が累々と転がり周囲が焦土になったあとに「何かが起こった」と気付く。その有名な例が飯田圭織の大人の七夕バスツアーであり、2019年の小野田紗栞ちゃんのデート疑惑ブログである。

飯田圭織の大人の七夕バスツアーはあんなに有名になってしまったが、実際当時のハロヲタはゲラゲラ笑いながら2chで実況していたし、参加しているオタクも自らを客観視しながら状況を楽しんでいる人が多かった。まず、あのツアーはアイドルを卒業してから2年も経った後の話である。あのバスツアーの最もダメなところは運営会社側(この場合は事務所と旅行代理店)が提供したサービスの悪さである。そこは大いに是正されるべきだと思うし、実際、飯田さんのバスツアーの悪評がネットに知れ渡った後のハロプロバスツアーの食事とタイムテーブルはかなり改善された。

飯田さん自身はむしろ「自分にとって最も重要な人生の節目を、自分のファンと共有したい」「ファンの皆さんに一番に報告したい!」くらいの幸福な心持ちであった、と私は予想している。それはまぎれもなく「善意」である。最愛の夫に恵まれ子供も授かった、その幸福をファンとも共有したい。自分の口から報告したい。きっとファンも祝福してくれる。そのくらいの夢見ごごちだったと、私は予想している。そこにあるのはアイドルとファンの間の悲しい気持ちのすれ違いと認知の「ずれ」だけである。どちらも「愛」によって構成されている。決して「悪意」ではない。彼女がオタクを人間として扱っていなかったわけではない。絶対にない。

それに対して当時の旅行会社の企画と事務所のやり口には、やはり多少の「悪意」を感じる。悲しいことに当時のハロプロでは「オタクを人間と思っていないのでは?」「我々にも人権があるということをご存知でしょうか?」と問いかけてしまいたくなるイベントが頻繁に開催されていた。残念なことにそれは当時の事務所の通常営業であった。リリイベの握手会で、アイドルの手に触れた1秒後に剥がしの男性に投げ飛ばされた(メンバーも驚いていた)ことを私は決して忘れない。私が今でも握手会を大の苦手とするゆえんである。エンドユーザーをなめ腐った価格とサービスの悪さゆえに、多くのドルヲタはハロプロを捨ててAKBへ流れた。当時の秋葉原のAKB劇場はファンをきちんと人間扱いしていたからだ(今は知らない)。AKBはその力を借りて大ブレイクし、ハロプロをこてんぱんにした。当然である。因果は巡っているのだ。

昔話はさておき、小野田さおりんのブログは女性アイドルが本当に好きな男の子とこっそりデートをしたときに書くブログとして1000点満点の出来栄えである。他の人間がこれを作ることはできない。あの日のさおりんのブログは唯一無二の芸術作品であると私は感じてしまう。そこに「あおり」や「悪意」を見いだしてしまうファンも多いようだけれど、私はあんまり悪意を感じないんだよね……。それよりもただ、生まれたばかりの恋の高揚だけを感じる……。「恋情に酔う少女の激情」がほとばしってる……。恋する人間だけが出す特別な粒子がwifiに乗ってブログの文字の隙間から流れてくるようだ……。『今夜だけ浮かれたかった』をさおりんが誰よりも上手に歌っている理由もわかったよ。今夜だけ浮かれてたんでしょ?わかる、わかるよ。最高に面白いよ!……と私は感じてしまうのだ。

もちろん、これはドルヲタとして最低最悪の感情であることはわかっている。悪趣味だってこともわかってる。私はアイドルの恋愛禁止は人権の侵害だと思っているし、矢口がモーニング娘。を辞めたときは彼女よりも「彼女を辞めさせた事務所」に対して怒髪天をつくほどの怒りを覚えていたけれど、そんなドルヲタは少数派だってこともわかってる。実際に金を出しCDを積みすべてのライブに通うタイプのおたくにとって、この一件が許し難いこともわかってる。つばきファクトリーという箱にとっても、この一件が致命傷になることは容易に想像できる。きっとファンは大いに萎えている。それもよくわかる。『ふわり、恋時計』はとてもいい曲だ。おのみずが大好きだ。きしもんも大好きだ。つばきファクトリーのみんなも大好きだ。もちろんさおりんのことも大好きだ。でも、つばきファクトリーがこの一件をどう乗り切ったらいいのかは、私にもわからない。

事務所は結局、小野田さおりんを「切らない」方針をとったようだ。それならば、これからのつばきファクトリーはさおりんがいかに何事もなかったように、または何事かはあったけれどむしろそれをうまく利用して「開き直っていくか」にかかっている。根性見せてほしい。

7位 トウキョウ・コンフュージョン / PINK CRES.


なんだかなんだかありえないなんだかなんだかありえない。サビの「そういう考え全然おしゃれじゃない ねぇ そういう考え全然時代じゃない」という歌詞が大好き。決めに決めたファッションで身を包んだ雅ちゃんだけが放つことができる謎の説得力である。

だから、だからね、女性ファッション雑誌ViViが自民党のキャンペーンで雅ちゃんをセンターに使ったことは許せない。まさにアイドルが政治利用されているその瞬間を見てしまった。やめてよ!糞事務所め!許さん!断れや!

その告知において雅ちゃんが出したコメント「Be Happy ハッピーに生きていける社会にしたい!」「いじめ問題などがなくなりみんなが明るく暮らしやすい世の中になればいいなって思ってます✌」は彼女なりに必死に考えたパーフェクトな解答だと思う。雅ちゃんすごい。雅ちゃん頑張ってるよ、だからこそ!上からの命令でアイドルを特定政党のキャンペーンに参加させるのは本当にダメ。もちろん彼女自身が彼女自身の意志で自らの支持政党を表明する(それによるリスクを理解し、引き受ける覚悟がある)なら何の問題もないし、むしろその姿勢を支持するんだけど。でもそうじゃないでしょ、あれは。こんなことをされると、『トウキョウ・コンフュージョン』の素晴らしい歌詞の意味が変わってきちゃうんだよ。事務所が断れや!!!まったく!

番外 ニッポンノD・N・A! / BEYOOOOONDS


曲とアレンジとメロディだけでいえば、今年のハロプロ楽曲大賞1位でもいい。でも歌詞が浅慮。あまりに歌詞がダメだから、この曲はおそらくメディアで推されることはない。非常にもったいないと思う。どうしてこの歌詞で「いい」と思ったんだ?どうしてこの曲の歌詞は(きついことで有名なハロプロ特有の)ダメ出しの対象にならなかったの?雨子やヒャダインの歌詞にダメ出ししまくっている場合じゃないんじゃないの?

まず、個人の性格や行動を遺伝子と結びつける議論は危うい。よほど慎重にやらないといけない。人格の形成は遺伝だけでなく、その後の環境や教育によって大いに左右される。「遺伝子で性格や行動が決まる」という考えは、優生学や血統主義や差別に利用されやすい非常に危険な思想である。「○○人種は犯罪を犯しやすい」「○○人種は知能が低い」というような、安易で差別的なレッテル貼りに容易に使われてしまう。貧困や教育資源の少なさなどの「社会的な不平等要素」を配慮せずに、あまりに少ないサンプルに基づく思い込みからそのような社会的レッテルを他人に貼りたがる人達は、残念ながらたくさんいる。そんな差別主義者に利用されてしまうから、DNAと個人の行動や性格を結びつける議論は非常に危険なものになる。後天的・社会的要素を「完璧に」排除してエビデンスを出すことは不可能であるとさえ、私は思っている。

ましてやこの曲で歌われているのは「集団」としての行動心理である。そんなもんをニッポンのDNAと言われては困る。コンビニで列になって会計を待っていることを「生粋の内弁慶」と言われても困惑するばかりだ。電車の中でみんながスマホを見ていることを「付和雷同の美学」とか言われても。関係なくない?スマホが便利なだけだろ?しかもそれを「日本のDNA」と言われても。いやそれ違うでしょ。DNAを一体なんだと思っているんだ?私の知っているDNAとはずいぶん違うぞ?まじで何を指しているつもりだ?「日本人らしい」と世間で言われている(私はそうは思わないが)集団心理の事象を「DNA」として勝手に再定義しているのだろうか?でも間奏で「デオキシリボ核酸!デオキシリボ核酸ですからー!」って前田こころちゃんに叫ばせているよな?それは辞書で引いた略語の説明をなぞっているだけ?

世界的な遺伝子解析によって、アフリカで発生した人類(ホモサピエンス)がどのような経路で世界中を移動し、日本列島までたどり着いたかの解析は順次行われている。解析しやすいミトコンドリアDNAやY染色体やHLAハプログループでさえ、かなりたくさんの種類があることが判明している。

日本人 – Wikipedia
ja.wikipedia.org › wiki › 日本人
分子人類学による説明

ニッポンのDNAって、このうちのどれかのつもりなんだろうか?それとも日本在住ってこと?使用言語が日本語ってこと?本当にDNAを何だと思っているんだ?大丈夫か……?などと思っていると、サビに「モンゴロイドDNA」と来る。

まじかよ。こりゃだめだ。大丈夫じゃなかった。やめてくれ。モンゴロイド以外の日本人は今すでにたくさんいる。日本中にいる。私の子どもの通う小学校にもたくさんいる。東京だからかもしれないが、コーカソイドもネグロイドもその他様々な人種の人々が、いたるところで働き生活している。もちろん彼らの子どもは地元の学校に通っている。モンゴロイドのDNAであることが日本のDNAではない。絶対にない。この曲は何を言っているんだろう?大丈夫か?

実際はただ音の面白さから「モンゴロイド」という言葉を採用しただけなのかもしれないし、さらに「DNA」もDA PUMPの「USA」の語感をもじっただけなんだろう。『USA』のアンサーソングという指摘も、その通りなんだろう。それにしても、思慮が足りなくないか?ニッポンのDNAって本当に何のこと?何を指しているつもりなの?今からでも遅くないから「モンゴロイド」の部分だけでも歌詞を変えませんか?

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さて、2020年2月号雑誌「ダ・ヴィンチ」にてハロプロが特集された。嬉しい。私がこのブログを立ち上げた頃、私は駆け出しの文筆家であった。まだ一冊の商業誌も出したことがなかった。モーニング娘。を好きといえば「モー娘。ってまだあったの?」と言われ、ハロプロはどん底の時期であった。私は仕事で会う様々な立場の編集者全員に「ハロプロのことが書きたいんです!」と訴えていた。当時すべての人に言われた。「もう遅い」「今の時代じゃない」「AKBならまあ、いいですよ」と。私はそのたびに、ルパンレンジャーVSパトレンジャー最終回のしほちんのごとく「そんなことありません!モー娘。は必ず復活します!」と叫んでいた。もちろん編集者さん全員が困ったように苦笑いしていた(相手は医療以外を求めていなかった、そりゃそうだ)。時は経ちあれから13年。いよいよ文芸雑誌でハロプロが表紙になった。女性目線で分析された歌詞が特集されている。私は嬉しい。生きていてよかった。もうこのブログは役目を終えたのかもしれない。

特集のサブタイトルは「ハロプロが女の人生を救うのだ!」である。大きく出たな。確かに少なくともハロプロは私の人生を救っている。それだけは確かだ、ありがとう。他の女の人のことは知らない。でも、困ったことにハロプロの「中にいる」女の人生が救われているのかどうか、今の私にはわからない。近年のグループ解体・解散・卒業ラッシュを見ていると、正直自信がなくなってきた。ハロメンには全員幸せになってほしい。卒業や脱退や突然いなくなってしまったメンバーも含めて、全員が幸せになってほしい。メンバーの幸福の前には、私たちオタクの救済なんてどうでもいいのだ。来年は幸福なお知らせが多いことを心より願っている。

※この文章をほぼ書き終わった後に新型コロナウィルス感染のパンデミックが起こった。ハロプロは現在、すべての興行を開催できていない。握手会もライブハウスもなくなりそうだ。ここに書いた事象のうちかなりのものが形を変えることを余儀なくされ、立ち行かなくなるものも出てくるだろう。世の中は本当に何が起こるかわからない。(2020/3/19)

2019年ハロプロ楽曲ランキング(前編)

突然だが、私は「自分が魅力的に感じるハロプロの歌詞」を大まかに3つのテーマで分類している。

①とある女子の日常風景
(例:『恋をしちゃいました!』『乙女パスタに感動』、ひとりきりイヤホンで音楽聴いている、『テーブル席空いててもカウンター席』など)
②女子の独立と自立、いわゆるジェンダー問題
(例:ガラスの靴はこの手の中にある、カボチャの馬車を正面に回して、女が目立ってなぜいけない、あぁ女なら感覚でわかるだろう、女の悲しみ三部作、『I’m a lady now』など)
③政治・環境問題
(例:選挙の日ってうちじゃなぜか投票行って外食、地球が泣いている、米がうまいぜ日本中、地球に流れる素敵な空気ぐっすり眠れる平和が好き、自由な国だから私が選ぶよ)

もちろん①女子の日常は②女子の独立と自立に直結しているし、②ジェンダーの抱える問題には③政治要素がたぶんに含まれているので、これらを分ける必要はないのだと思う。でもあえて3本柱に分けてみた。つんく♂はこの3つすべてにおいて高得点をたたき出す仕事をしてきた。その模倣を一人の作家で行うことはとうてい不可能である。つんく♂更迭後のハロプロにおいてハロプロをプロデュースしている人達(いったい誰なんだろう?個人名または団体名を公表してくれよ)は、この3種を様々な作家に分散させることによってハロプロらしさを担保しようとしている、と私は考えている。

①とある女子の日常風景と②ジェンダー問題は児玉雨子さんと山崎あおいさんと大森靖子さんがすごくいい仕事をしている。①とある女子の日常 は福田花音ちゃんも上手かった(彼女が辞めてしまうのはもったいない)。

そして②ジェンダー問題③政治環境問題を星部ショウさんや中島卓偉さんに無理矢理やらせようとして、あまり上手くいってない(ように私には見える)。そもそも、歌い手自身の思想を反映しているわけではない政治的議題を未成年女子に歌わせるのは、かなり危険な橋だ。作家自身が当事者ではないジェンダー問題を未成年女子に歌わせるのも危険な橋である。細部によほど気を使わないといけない。作詞家に対して「そんな大切なイシューは自分で語れ」「自分自身の作家生命をかけて世に語りかけろ」「他人、しかも社会的立場の弱い未成年女子を前線に出して自分の信条を語らせてるんじゃねーよ」という批判が来てしまう。とても繊細でむずかしい仕事だ。できる人の方が珍しい。星部さんと中島さんに②ジェンダーや③政治環境問題のハロプロの詞を作らせるのはあまり得策ではないと、私は思う。具体的には『赤いイヤホン』や『BRAND NEW MORNING』や『就活センセーション』あたりね。

『ニッポンのD・N・A!』の歌詞がかかえる違和感(後述)、『素直に甘えて』の「男のくせにおしゃべりが過ぎるわ」という歌詞にOKを出してしまえるところ、『赤いイヤホン』のサビに「男なんかのわがままに女はもう縛られない」という歌詞を入れてしまえるところを見ると、「つんく♂さん以外に①②③のすべてを上手に歌詞に乗せてハロプロの女子達に歌わせるのはむずかしいのではないだろうか」と感じてしまう。だって、逆に考えて「女なんかの〇〇〇〇に」という歌詞だったら、たとえそこにどんな単語が入ろうとも私は許容できないのだ。「男なんかのわがままに」という歌詞は主語が大きすぎると思う。「あなたなんかの わがままに 私はもう縛られない」だったら印象が全然違うのに。

ちなみにつんく♂さんの男性ジェンダーに関する最新の解釈は「なぜ『愛してる』それが言えないんだろう アホらしい「男」という意地のせいなら「男」はいらない」@岸洋介 なのだ。視点の深度が違いすぎる……。

実際のつんく♂さんのハロプロ歌詞は、①とある女子の日常②ジェンダー③政治環境問題 の三つの柱のうち一本だけをメインに歌詞を書くのではなく、三本すべてを一曲の中に内包させている。原子のまわりをふわふわとただよう電子雲のように。これはとんでもない曲芸であり、(よくできている方の)つんく♂歌詞の希有な点である。

最もわかりやすい例としてここでは『ザ・ピース!』を紹介する。軽く一聴しただけだと、都会で暮らす恋愛至上主義な女の子の脳天気な日常の歌に聴こえるかもしれないが、内包している要素は全然違う。好きな人のお昼ごはんを妄想しながら、選挙に行って外食する。まず若い女の子が安心して安全に選挙に参加できることが平和だし、投票後に家族で外食できることが平和である。まさに「政治」だ。「好きな人が優しかった」「大事な人がわかってくれた」「道行く人が親切だった」「愛しい人が正直でした」これらはすべてただの日常に見えて、実は確かに主人公を取り巻く世界が平和であることの象徴である。主人公はそれらを「感動的な出来事」と総括する。さらにつんく♂が後年語ったように、この曲の主人公は「夜に」「一人で」食べるデリバリーピザのサイズを悩んでいる。都会に暮らす女子の「孤独な」日常の風景でもあるのだ、実は。タイトルは直球で『ザ☆ピース!』。すげぇ。こんなもの、他の人には作れないよ。

私が2019年末に一番元気が出たのはつんくさんがVtuber向けに作った曲『OH!Young Heart』のライナーノーツにて、ずっと思春期女子がこれまでの自分とこれから世に出る決意を語っていたのに、最後に突然「だって、この地球を愛してるから。」という一文が挟み込まれたことであった。これだよ、これ。ゲラゲラ笑った後にすごく元気が出たよ。そうだよね!わたしもこの地球を愛してる!たとえコロナウィルスが私の身体にふりかかってARDSで死んだとしても、結局私はそんなウィルスを作り出してしまうこの地球の自然科学ごと愛しているのだ……。

つんくさんは咽頭がん術後5年を迎え「寛解」といっていいはずの状態のはずだが、ハロプロに帰ってくる気配はない。なぜだろう。さみしい。これはつんく♂がナイスガールプロジェクトをやっていた頃と同じ感覚である。あの頃も、ハロプロの外の人間の方がたくさんつんく♂の新曲を歌っていた。当時と違って今はYoutubeがあるから、マイナーな楽曲でもエンドユーザーに届く環境がある。つんく♂の作品を追うこともできる。それでもね、やっぱり私はハロプロの女の子がつんく♂のリズムと珍妙な歌詞に乗って歌い踊り出すときの高揚感が好きなんだよなぁ。

1位 KOKORO & KARADA / モーニング娘。’19

つんく♂のハロプロ最新曲。素晴らしい。正確には2020年の楽曲大賞として挙げるべきなんだろうけど、もう知らん。だって2019年秋の娘。ツアータイトルは「KOKORO & KARADA」だったんだぞ。この曲はずいぶん前から作られていたのに、どうして2019年のうちにリリースされなかったんだろう。2019年のモーニング娘。はなんと!1回しか!シングルを出さなかった。なんで?少なすぎるよ。今年は卒業もなかったし舞台もなかったのに。もっと新曲を出してほしかった。

「やばい!娘。に動きが少なすぎてつまんないぞ!」というこの感覚には覚えがある。2008年である。この年、モーニング娘。はシングルを『リゾナントブルー』『ペッパー警部』の2枚しか出さなかった。2枚しかないうえに、そのうちの1枚は大人の事情にまみれたカバー曲。「今年のハロプロは面白くなかったなぁ。ハロプロができて以来、ハロプロが最も面白くない一年だった。寂しい。」と当時の自分もブログに書いている。この年にAKBは大ブレイクし、モーニング娘。の人気は歴史上最も深い地底まで落ちた。娘。に動きがないとハロプロ全体が低調になっちゃうんだよ。やめてよ。もっと動いてよ!私の心は娘。15期が決定するまで沈んでいた。

私の大好きな北海道研修生・山﨑愛生ちゃんが娘。15期に決定して私の心は舞い踊っている。『リアル☆リトル☆ガール』にて私は彼女の独特の声質に心を射貫かれていた。2018年のハロプロ研修生実力診断テストで『Wonderful World』をなぜか英語で歌ったのもすごかった。なんだったんだあれ。ひとり次元が違っていたぞ。今から思えば、ハロプロ研修生・北海道という謎団体は山﨑愛生ちゃんを守り育てるための組織だったんだな。ハロプロ研修生名古屋レッスン場が牧野真莉愛ちゃん一人を守り育てるためのゆりかごであったように。

愛生ちゃんがゴリ押し中の謎のキャッチフレーズ「パンダさんパワー!」は私への私信だと勝手にほくそ笑みつつ、私はこれからもハロヲタとして生きていくつもりです。あ、あと北川莉央ちゃんの顔とスタイルと大物然とした風格もまじで好み。Juice=Juiceの松永里愛ちゃんといいタコちゃんといい、今年ハロプロに入ってきた新人たちはみな独特の大物感がある。数年後が楽しみだ。

さて、前置きが長くなったが『KOKORO & KARADA』である。三人のメインボーカル(ふく・さく・まー)にぴったりあった一曲。

この曲はサビだ。もうサビ以外いらない!って思うくらいサビがいい。いや実際はサビ前の長いピアノソロが聴き手の感情をより高い場所へつれていく装置なんだろうけど。「君が好きさ そう好きさ もう心止められない 未来へ向かう雲に飛び乗って」「だから君もMore愛して Yes 体おもむくまま 太陽浴びてはためく帆のように」これだよこれ!相思相愛の二人のコールアンドレスポンスとしてこれ以上のものはない!最高!

止められないのは私の「KOKORO」。そして君に望むのは私をもっと愛して、「KARADA」がおもむくままに動くこと。これが逆だったら「心おもむくまま、体が止められない」であり、ちまたにあふれる凡百のラブソングになる。とくに「体が止められない」という表現は残念ながら歌謡曲によく使われがちで、脳や思考回路をあまりに軽視しており私には共感できない。肉体のせいにするんじゃないよ、その肉体をコントロールしているのは心だろう。心が阿呆であることを肉体のせいにするんじゃない。

つんく♂の描く女の子には先に「KOKORO」がある。私の心が暴走している。まず最初にそれがある。その後にあなたももっと私を愛して、心に体を従わせてくれと言ってる。素晴らしいシビリアン・コントロール。あくまで暴走するのは私の心。暴走の末、相手の心と体に対等に呼びかける。そこに古典的なマッチョイズムや男根主義や「支配と被支配」の関係性が入る隙間はない。対等に愛し合う二人の関係だけがある。

そして私は「未来へ向かう雲に飛び乗って」、対する君は「太陽浴びてはためく帆のように」私を愛する。なにこの比喩。なんと美しい、思い合う2人の歌詞だ。こんな綺麗に比喩できることがすごい。女をメロンジュース、男をバナナに例えたような流行歌もまだまだ日本には流布しているというのに、こんなに美しく対等に愛し合う二人の肉欲を表現できるとは。しかもそれがサビで、突然バックトラックの音が減り無音に近くなった中で流れる。日常から突如垂直に切り離された恋人たちの高いテンションが一瞬に封じ込められているように感じる。

 

2位 都営大江戸線の六本木駅で抱きしめて / CHICA#TETSU


BEYOOOOONDSのファーストアルバム『BEYOOOOOND1St』はすごくすごくよかった。その中でも、女子の日常風景を描くことに大成功し、かつユニットのコンセプトに完璧にはまっている曲が『都営大江戸線の六本木駅で抱きしめて』である。この曲は私の中の星部ショウさんの最高傑作記録を更新した。去年までは『眼鏡の男の子』が最高傑作だと思っていたのだけど、今はまさにこの曲が最高傑作。星部さんは最高を更新し続ける作家さんである。すごいね。

『眼鏡の男の子』といい『誤爆』といい、星部さんはシチュエーションがゴリゴリに固まった状況での起承転結のある寸劇的な歌詞が合っているんだな。先ほどの三本柱で言えば①である。これは特に新しいわけではなく、古典的には松本隆の『木綿のハンカチーフ』、つんく♂ならば『恋をしちゃいました!』『君の友達』『テーブル席空いててもカウンター席』などで行われている手法だ。同じ星部さんなら『誤爆』の歌詞がまさにこれ。星部さん、生き生きしている。②ジェンダーに言及する歌詞 や ③政治環境問題 に対する不器用さとは対照的だ。②ジェンダーを書くと「男なんかのワガママに女はもう縛られない」になっちゃうし、③政治的な歌詞をむりやり書かせると「新時代の幕開け!」になっちゃうんだもん。

結局、星部さんに最もしっくりくる歌詞は①とある女子の日常描写であり、『都営大江戸線』は素晴らしい案配の女子の日常の歌である。まあちょっと鉄道の小ネタによりすぎだけど、鉄ヲタのリーダー・いっちゃんの存在とCHIKA#TETSUというユニットのコンセプトとあわせて、奇跡的にいい位置に落ちついている。これがあと少しでも演劇性の方向へ振れてしまうととたんに「日常」性が薄れ、私の心はすっと冷めてしまう。「日常」だよ「日常」。『元年バンジージャンプ』の間奏で令和=丸と丸で眼鏡くんを思い出すのは、全然「日常」じゃないよ。

BEYOOOOONDSのファーストアルバムは全体を通して『眼鏡の男の子』の物語だ。星部ショウ著「眼鏡男子サーガ」である。「都営地下鉄を使うような東京23区内に住む、令和元年の女子高生たちの日常」を描いたコンセプトアルバムとして美しく収まっている。そのコンセプト通りの小劇場的なライブを生歌で行っているメンバーたちの努力も素晴らしい。私は『トミー』と『ジギー・スターダスト』に育てられたロックおばちゃんなので、なんだかんだコンセプト・アルバムが大大大好きなのだ。BEYOOOOONDSはこの素晴らしいアルバムをひっさげ、今年一年かけて小劇団一座のように全国を回るのだろう。そしてそれはとても上手くいくだろう。ライブも盛り上がるだろう。問題はその先だ。次の一手をどちらに転ばせてくるのか、私はとても注目している。

3位 「ひとりで生きられそう」って それってねえ、褒めているの? / Juice=Juice

『「ひとりで生きられそう」って それってねえ、褒めているの?』時代を切り取った絶妙なタイトルである。まさに②ジェンダー問題、女子の独立と自立 そのままのタイトルと歌詞だ。令和元年、今の日本を生きる20代女性向けの立ち位置として完璧。素晴らしい。

私が20代だったころ、ジュラ紀か白亜紀あたりかな、当時は女性が「ひとりで生きられそう」という「仮定」自体が成立していなかった。経済的にも社会的にも「女性がひとりで生きられるはずがない」が、当時の社会を覆うジェンダーの大前提であった。だって初期雇用も賃金も昇進も昇級も、男女で歴然とした差があったのだ。頑張って労働を続けても十分なお金がもらえないんだから、そりゃ生きていけないに決まっている。シンプルに餓死である。「女性であるゆえに」ろくな賃金をもらえない会社や、「女性であるゆえに」昇進しない社会や(残念ながら医学界もそういうところである)、「女性であるゆえに」年齢によって辞めさせる不文律がある会社(ハロプロの悪口ではありません)は、今よりもずっとずっと多かった。女性がひとりで生きる道は(実際はひとりで生きている人もそこそこいたにもかかわらず)この世に存在していないかのように作られていた。今でも、氷河期世代の女性がひとりで生きるにはかなりの重労働と圧倒的な貧困がつきまとっている。これは現在進行形の問題であるが、特に救済は用意されていない。

昔話が過ぎた。そんな時代から幾星霜、この曲に共感する若い女子が多いということは、今の20代の女の子達には女性が「ひとりで生きられそう」という「仮定」自体が(いちおう)成立しているということである。少しずつでも時代は前進している。よかった!!ハロプロに女性ファンが増えていることも嬉しい。

今度映画になるという劔 樹人さん作「あの頃。男子かしまし物語」であるが、モデルとなった当時のハロプロ現場の男女比は98:2であった。2割どころか2%。当時の現場を再現するために200人のエキストラを募集するというのなら、男女比160:40のはずがない。196:4だね。いや199:1でもいいかもしれない。

『「ひとりで生きられそう」って それってねえ、褒めているの?』を中野サンプラザのJuice=Juice公演で初聴したときの私の感想は「え?これ新曲?タイトル長いね?うーん、普通にいい曲。普通のアレンジの普通のJPOP。落ちサビの段原瑠々ちゃんが素晴らしい。しかし、これをJJが歌う意味があるのか?」であった。正直に言うと、あまりピンときていなかった。もちろんその後何度も聴いて「なるほど」と思ったし、今はもうオープニングの佳林と落ちサビの瑠々の歌声に「待ってました!」と盛り上がっている。

結局、私がJJに求めているのは『イジワルしないで抱きしめてよ』や『生まれたてのBabyLove』や太陽とシスコムーンの曲を引き継ぐ姿勢に代表される「和製アイドルファンク」なんだな……。あ、これを「赤羽橋ファンク」って呼ぶのか。

クリスマスが来るたびに私は2016年クリスマスイベントでカバーされた『ENDLESS LOVE~I Love You More~』を聴きながら真夜中の原稿用紙を埋めている。もう何年もずっと。私の趣味はぜんぜん一般受けしない。私は古い辺境のハロヲタだ。わかってる。私の好みは売れ線からほど遠い。わかってる。『ひとそれ』が受け、JJにも女性客が増えた。来年は『プラトニックプラネット』『Va-Va-Voom』『ボーダーライン』のどれかに必ず楽曲大賞を投票します。だから音源化してよね、頼むから音源化してよ!お願いだよ!

私にとって今年のハロプロは金澤朋子の年だった。ハロプロOG まで含めれば2019年は鞘師里保と工藤遥と田村芽実と和田彩花の年だったと思うが、全員卒業している。現役ハロプロメンバーに限れば、私にとって今年は金澤朋子の年だった。まず非常に個人的なことだが、コンサートに参加できる日程がことごとくJuice=Juiceとしか合わなかった。アンジュルムの現場と日程があったのは後楽園ラクーアのアルバムリリースイベントだけだったし、娘。にいたってはカウントダウンまで予定が合わなかった。今年からコンサートのチケットが極端に手に入りにくくなったせいもある。オリンピック憎むべし。

中野サンプラザからの帰り道も武道館からの帰り道もカウコンライブビューイングの帰り道も、私は暖かいため息をはきながらずっとかなとものことを考えていた。いつもどこか不安そうだった彼女にリーダーとしての風格が出た。度肝を抜かれるほど美しいと思う瞬間が何度もあった。そして何より、歌がさらにうまくなった。これ以上上手くならないだろってくらい最初からとても上手かった歌が、さらによくなった。胸が熱くなる。かなともがハロプロという組織の中で行う仕事はおそらく2020年が最後なのだろう。2020年は、私のハロヲタとして使える時間をできるだけかなとものために使おうと思う。

(後編に続く)

正式名称:「『劇場版 騎士竜戦隊リュウソウジャーVSルパンレンジャーVSパトレンジャー/魔進戦隊キラメイジャー エピソードZERO』スーパー戦隊MOVIEパーティー」見たよ

 

2月8日公開の映画「『劇場版 騎士竜戦隊リュウソウジャーVSルパンレンジャーVSパトレンジャー/魔進戦隊キラメイジャー エピソードZERO』スーパー戦隊MOVIEパーティー」略してリュパパトを見た。公開初日に朝一番で、大泉T-JOYのルパンレンジャーによるグリーティングイベント付き上映回に行った。これがルパンイエローに会える最後のチャンスだと思ったからだ。会場はほぼ満席であった。

主役のWレッドたちは今後もヒーローショーや住宅展示場で行われるイベントに出てきてくれるであろう。でも脇役たちは違う。おそらくこれがルパンイエローと握手できる最後のチャンスである。そう思った私は子供たちを連れてはるばる大泉まで行った。アルコールで手を消毒してからヒーローのガワと握手するのはなんとも奇妙な体験であった。ルパンイエローのスーツの手部分がアルコールでボロボロにならないか心配だ。スーツの中の人の皮膚に直接触れることはないので、これは観客同志の感染を防ぐためだけに行われている処置だよな。私達のために気を配ってくれてありがとう。

リュパパトの映画は非常に面白かった。まさにルパパトの新作を私は見た。懐かしい彼らがそこにいた。月夜市がそこにあった。気のきいた簡潔なセリフ、リアリティ・ラインのはっきりした淀みなく流れる物語、それぞれに個性的な格好よさと可愛さを放つキャスト、アングルがくるくる変わる派手なアクション、致死量を超えたギャグ。この五段攻撃、まさにルパパト。大爆笑しながら「いやー今日も最っ高のルパパトだった!全員かっこいいし全員かわいい!最高!」と大満足した30分後に、実は鉛のように重いメインテーマを知らぬ間に飲み込まされていることに気付く。この感覚、まさにルパパト。私は今まさにルパパトの新作を味わっている!思い返せば香村さんはアキバレンジャーの頃からそうだったし、新しいプリキュアも2話目にしてすでにそうなので、これが香村さんの作る料理の味であり「消化管通過性」なんだろうな……。

私にとっての「鉛」は「快盗たちが大切な人と距離をおいている」現状がさらっと語られたことなんですけどね。隣に自分がいなくてもいいから、幸せに生きていってほしいってことなのか……。はあ……そうか……。透真……。初美花……。てことは魁利くんとお兄さんもか……。「戦隊シリーズで最もエゴイスティックな三人の快盗」とまでプロデューサーに言わしめたルパンレンジャーを、あのリアリティ・ラインの社会がどう断罪し、どう救済していくのか。または断罪や救済をせずに進んでいくのか。その答えはTV最終回でいったん保留にされ、今後のルパパトという作品の大きなテーマになっている。
※さらっと「今後のルパパト」とか書いてるけどそんなものがある保証はどこにもありません※

ルパンレンジャーの戦闘はあくまでも私事である。多くの一般的なヒーローの場合、自分の利益のためだけに悪を倒していた主人公たちが、しだいに誰かを守るために戦うことを覚え、最後には自分と関係のない赤の他人を守るために戦えるようになる。主人公は「真のヒーロー」に成長して物語は大団円となる。しかしルパンレンジャーは、その役割を最初からパトレンジャーに奪われている。その方向に向かって成長する道が閉ざされているのだ。これはルパパトというドラマが最初から持っている宿命である。TV本編におけるルパンレンジャーの戦いは、おそらく明確な意思を持って「私闘のまま」で終わらされた。何の関係もない他人や人類や地球のために戦う=公的な暴力は、パトレンジャーが戦うための強い動機として描かれ続けている。私人であるルパンレンジャーが「戦う必要がない」世界にするのがルパンレンジャー(とくに圭一郎)の信念なのだ。でもねぇ。この世に生きる全員が警察になれるわけではないのよ。圭ちゃんみたいに、警察がいつでも正しく市民の味方をしてくれるかと言えば、決してそうでもないのよ。警察が権力者におもねり無抵抗の市民に銃を向けてきた歴史だって、たくさんあるのよ。

私は、個人が「絶対的な悪」による理不尽に巻きこまれたときに、自らも武器を持って暴力で対抗する「覚悟」は絶対に必要であると思っている。これは『ねじまき鳥クロニクル』でも扱われているテーマだ。「邪悪で純粋な悪や暴力」はこの世に確実に存在している。ゼロにはならない。それらが自分や自分の大切な人に牙を向けてきたときは、自らの暴力性を開放してでも食い止めなければならない。世界は無菌ではないのだから、生きていくためにその覚悟は必要である。そうでなければ悪人たちに骨の髄までしゃぶられてしまう。そう私は思っている。だって、実際にベビーカーに野次を飛ばす見知らぬ人や(こちらを弱いと見てる)、何も考えず痴漢してくる人、子供を無差別に攻撃してくる人というのは存在するのだ。子供の生命や尊厳を守るためならば、私はそいつらを返り討ちにして殺す覚悟がある。その覚悟がなければ子供を守れないし、端的に言えば子供を育てることすらできない。私の子供たちにも「大切な人のためならば命をかけて戦える人間になりなさい。そういう瞬間は人生の中で1,2回あります」と教えている。その覚悟がなければ自分を守ることも、大切な何かを守ることもできない。だから私は、快盗への必要以上の断罪描写に共感できない。私は自分の息子に「恋人が化け物に襲われたならば、すべてを投げうって恋人を取り戻しに行ける人間」になってほしいのだ。透真くんには幸せになってもらわねば困る。

世界は完璧ではなく、すべての人間が警察になって公的に認められた暴力を行使することはできない。「この物語の世界観の中では快盗の手段はエゴイスティックな私闘であり、断罪されなければいけない」というのならば、それもよかろう。フィクションだから。でもその断罪には必ず救済の描写がセットで必要になる。

まずTV最終回において、大切な人たちが自分も快盗になることによる「救済」があった。家族からの救済だ。今回の映画でパトレンジャー(親しい友人かつライバル)による三者三様のゆるやかな「救済」が見られた。魁利くんや透真を見逃し、彼らの生活を気にかけ、コーヒーを飲みながら穏やかに語り合い、躊躇せず共闘する姿勢がそれである。それに対する快盗の答えも描かれている。今回の映画の中で、ルパンレンジャーは警察の装備を狙う素振りをまったく見せない。それどころか変身する時間を極力少なくして、なるべく戦闘しないようにしている。これはルパンレンジャーなりの、パトレンジャーの信念に寄り添った行動と思いやりだと思う。物語は少しずつ進んでいるのだろう。実際は相変わらず物の少ない廃墟みたいな事務所に一人たたずむ魁利くんを見て私は笑ってしまったけど。大丈夫か、彼。そこ寒くないか?まぁ結局は「死者再生」という大きなタブーに挑むノエルとルパンコレクションがどうなるのか?という議題がいまだ残っていて、その結論が出ないとルパンレンジャーの断罪も救済も完了しないんだけどね!今後の展開次第だな!
※さらっと「今後の展開」とか書いてるけどそんなものがある保証はどこにもありません※

 

さて、ここからは私事である。放送終了当時に3歳だった次男は、4歳になった。彼は映画を見終わって自宅に帰ると一目散にルパパトの玩具が入っているおもちゃ箱に向かった。そして「とりがー!とりがー出して!」と言い出した。彼がルパパトのロボット玩具で遊びたがるのは本当に久しぶりである。放送が終わった番組のおもちゃは、どうしても出番が少なくなるのだ。私は彼のためにルパパトのロボ玩具をざっと床に広げ、しばし様子を眺めていた。

次男は当時、ひとりでルパパトのロボットを組み立てることができなかった。手の大きさも足らず、握力も足らず、ロボのジョイントをつけ外しすることができなかったのだ。彼はいつも必死で兄にロボの組み立てを頼んでいた。1年経った彼は成長し、自分で好きなようにロボを組み立て、ばらすことができるようになっていた。すごい!成長している!母は子の成長を感じ心の中で感涙を流していた。しばらくすると彼は自力で、一人でロボを組み上げた。4歳男児が人生で最初に自分一人で組み立てたロボがこれである。

「けいさつのろぼ!」

私は驚愕した。サイレンパトカイザースプラッシュ。テコ入れのせいで映像ではいまだに出ていない、でも、もしこの映画に巨大戦があったならばようやく見られたかもしれない幻の形態、サイレンパトカイザースプラッシュ。適齢期男児が初めて自分の手で作ったマシンが、サイレンパトカイザースプラッシュ。ああああああ!!この瞬間に、私の中のルパパト玩具戦争は個人的終戦を迎えた。

「警察のおもちゃをすべて快盗にまわす」という物語を完全無視した支離滅裂なテコ入れに、くやし涙を流した現場関係者は多かっただろう。きっとみんな悔しかったはずだ。でも、安心してほしい。4歳児にはきちんと伝わっている。きちんと当事者に物語は伝わっているよ。彼らは物語をきちんと理解している。当時テコ入れを決めた上層部の人間たちよりも、子供たちのほうがずっとずっと物語の真髄をよく理解している。あんな決定をした大人たちは、消費者である子供を完全になめきっていたのだろう。そうでなければあんな支離滅裂で脈絡を無視したテコ入れを「是」とするはずがない。子供を馬鹿にしてはいけない。

これは物語をあきらめなかった制作者たちの勝利である。香村さんの粘り勝ちだ。決してめげなかった、心が折れなかった、関係者の皆さんの努力のたまものである。ルパンレッドの姿で「圭ちゃん」と呼びながらスプラッシュを手渡す魁利くんが見られたこと、腕に消化器がついたパトレン1号の姿を見られたこと、サイレンパトカイザースプラッシュを(映像で見てないにも関わらず)4歳児が組み立てたことによって、私の中のルサンチマンはきれいに浄化した。待望のスーパールパンイエローとスーパーパトレン2号も見られたしね。当時不自然に消されていた「超!警察チェンジ!」の音声も大画面でしっかり聴けたし。感無量だよ!

この映画に巨大戦がなかったことに文句を言っている大きなお友達の皆さんは、今すぐサイレンパトカイザースプラッシュを作りましょう。投げ売りされてるトリガーマシンを今すぐ買ってサイレンパトカイザースプラッシュを作りましょう。そしてロボ戦しましょう。Amazonで今ならDXサイレンストライカー980円、DXトリガーマシンスプラッシュ1849円、DXグッドストライカー1613円、あと一台は値下げしまくっているお好きなビークルを一つクリックして、完成!サイレンパトカイザースプラッシュ!ブーンドドドドドドドド!バンダイも儲かるし小売の在庫もはけるし君の欲求不満も解消できるし、一石三鳥だよ!

(三谷幸喜のありふれた生活:980)映画、楽しかったあああ

三谷幸喜さんの息子さんの第一声は「楽しかったあああ」だったそうだ。4歳次男は「また見たいねー!」だった。「もう一回来ようね―!」と言う彼の笑顔は輝いていた。短い時間で様々なヒーローが出てくる構成は非常にYoutubeっぽく、今どきの子供向けだと思う。盛りだくさんの「楽しい」の波状攻撃。子供は気に入った映像を何度も繰り返し見る。だからYoutubeの再生回数ランキングは子供向けばかりになる傾向がある。この映画の後半はまさにそれ。様々な人気コンテンツが融合したキラやばな波状攻撃は非常に楽しく、Youtubeっぽかった。適齢期の子供は長い映画の後半に集中力がきれてダレてしまうから、この構成はとてもいいと思う。こりゃ子供は何度だって見たいだろうな。リロードマーク連打しまくりだな。ちなみに映画は結局計3回見た。はやく円盤がほしい。

そして、残念なことにあれだけ盛りだくさんの内容で完成度の高い作品を見せられたにも関わらず、映画が終わったあとの私の頭はいつも「キラメイピンク最高に可愛い。やばいどうしよう。超好み超好み超好み。めっちゃタイプだ!!!」で占められてしまう。私は本当にどうしようもない。

だってさ、確かにああいうタイプの女医さんっているんだよ。「お上品爆弾」を炸裂させて周囲から浮上するタイプの有能な女の医者。46歳くらいで黒髪で品のいい服とブランドの白衣を着て、非常に可愛らしい外見と仕草で、マイナー科の准教授や医局長や科長をやってたりする。そう46歳くらい。46歳くらい……。約半分の年齢(設定23歳)にしてあの境地に達しているとは、キラメイピンクはよほど強いキラメンタルの持ち主に違いない。今から1年間が楽しみである。(2020/2/26)