おたく活動備忘録 : 金澤朋子卒業公演をライブビューイングで見た
朋子が25歳定年の壁を打ち破った日、私は人生で初めて「本人不在の誕生会」を行った。ハロプロの伝統であった25歳定年制度が静かに打ち破られたことが、そのくらい嬉しかった。
しかしその一ヶ月後、朋子は病気によるグループ卒業を決断した。それ自体はしかたのないことだ。わかっている。私が朋子の主治医であったとしてもその決意を支持するだろう。挙児希望のある子宮内膜症の女性に勧めることは、結局のところ月経周期が一回でも少ない状況での妊娠出産を目指すことに尽きる。私は医者として彼女の決定を大いに肯定する。
朋子も、それからまーちゃんも、現代医学が不甲斐なくて本当に申し訳ない。あなたたちの活動を支えられる医療を、現代の医学では提供できなかった。それが悔しい。本人たちはもっともっと悔しくて悲しいと思う。
私は「ここだよ朋子」コールが可能になるまで、朋子には卒業しないで欲しいと思っていた。でもそれはかなえられなかった。市松模様の一席飛ばしで販売された横浜アリーナ卒業公演のチケットはとれなかった。この私が朋子の卒業に立ち会えないなんて、思ってもいなかった。でも私は世情を考えて粛々とそれを受け入れ、ライブビューイングのチケットを取った。
Juice=Juiceというグループは、安定して高いクオリティをキープしながら歌唱サービスを提供し続ける、ずっとそこにある組織であった。それはまるで朋子の人生目標であった「地方公務員」のような安定感とたたずまいで、ハロプロという組織の中にずっと存在し続けた。歌唱への過剰な鍛錬ぶりも、消防署の職員さん達のストイックな訓練と自己研鑽を見ているようだった。コンサートはさながら消防隊の出初め式やブルーインパルスの航空祭だ。娘。から大好きなズッキがいなくなったときも鞘師がいなくなったときも、Juice=Juiceは変わらずそこにあり続け、安定した歌唱力で私を支えていてくれた。私にとってJuice=Juiceは安定した自治体の福祉厚生であり、インフラであり、ベーシックインカムだった。
最初の武道館からの帰り道、高揚感に包まれながら私は「Juiceは最高だ。いつまでも存在し続けて欲しい。佳林と朋子と紗友希がいつまでも一緒に歌っていてくれたらいいのに」という強い幸福感に包まれていた。それと同時に、それが不可能であることもわかっていた。どこかで必ず終わりは来る。彼女たちがいなくなったら、私はどうなってしまうんだろう。私は幸福の絶頂の中にいながらそれを失うことにおびえていた。多幸感と、その消失への恐怖。両方を漠然と抱えながら、私は人混みにまぎれて田安門を通り皇居の堀の坂をくだっていた。九段坂駅への道は人混みにあふれ、アン・オフィシャルな写真を売るあやしげな露天のハロゲンランプでぎらぎらと輝いていた。
当時、武道館のチケットは苦労せず一般でも買えた。武道館の客席が満員になったのも直前であったように思う。だから当時の私は、朋子・佳林・紗友希という三人の歌姫が卒業するコンサートの「どれにも」現地で参戦することができないなんて、夢にも思ってなかった。ただ、ベーシックインカムがいつか途切れることだけを、漠然と不安に思っていた。そしてその日が来る。
私は朋子の卒業発表から一ヶ月の間ずっと目をそらし、発表を信じることができないままに卒業コンサートのライブビューイングに参加した。
オープニングは彼女の代名詞である『イジワルしないで抱きしめてよ』だ。ハロー・プロジェクトの全楽曲の中でも一二を争うくらい好きな曲である。『イジ抱き』のCD音源で朋子が歌っていたパートは、すべて朋子に戻っていた。私はそれが嬉しかった。そして他のパートは、すべてオリジナル当時とは違うメンバーたちが歌っていた。開始一曲目だったこともあり、朋子も含めた全員の声量や音程が安定していなかったが、それもまたグループの歩んできた歴史を感じさせてよかった。
コンサートはとても素晴らしかった。まず、朋子の美しさが極まっていた。あんな美しい姿のままステージからいなくなるなんて信じられないほどであった。生まれ変わったら朋子の卒コンの赤いストレートビスチェドレスの背中のサテンのリボンになりたい。Juice=Juiceの次の展望がほのかに予感できるパート割りやセットリストもよかった。つまりきちんと完成された、予定通りの卒業コンサートだった。
そして私は、紗友希がいなくなったことをここでようやく実感した。今日この日まで、紗友希がJuice=Juiceからいなくなったことを私は本当は信じていなかった。朋子の卒コンを見て私は初めて紗友希の突然の消失を自覚し、現実だと認識し、消化するとまではいかないものの、ゆっくりとかみ砕いてのみこむことができたのだ。
朋子と紗友希の友情と歌唱力における切磋琢磨こそが、Juice=Juiceという女性アイドルユニットの「核」であった。5人のオリジナルメンバーによって作られたJuice=Juiceの絶対的センターだった佳林ちゃんでもなく、初代リーダーのゆかにゃでもなく、朋子と紗友希という稀代の女性歌手2人が、歌割をめぐってせめぎ合い自己研鑽を重ねる姿。それこそがJuice=Juiceという女性アイドルグループの「核」であったと私は思う。2人は常にお互いを高めあっていた。2人のパワフルで声質が違う歌声の上に佳林のアイドル歌唱のクリスタルボイスが乗ることで、Juice=Juiceという歌唱グループは完成し、大きなグルーブを作っていた。
私が以前Twitterで書いたJuice=Juice『微炭酸』池袋リリースイベントのレポートにて、「お互いの声がちょっとかすれたり、ちょっとだけ音程がずれたりした直後にニヤっと笑いあう2人」というのは、朋子と紗友希であった。
どちらも女性アイドルとして最上級に(でも少し違う方向性で)歌の上手い二人が、お互いの歌を認め、技術を評価しあい、監視しあい(パートを奪いあうのだから)手を抜けない中で切磋琢磨する。それこそがJuice=Juiceというグループの中心をささえる本質であった、と私はいま思っている。最高のライバル、かつ最高の親友。それが朋子と紗友希だった。この9年間ずっと。いや実際は二人がそんな関係になったのはここ6年くらいな気もするが、とにかく私は、音楽に対する二人の真摯な姿勢にずっと励まされてきた。
2021年1月に紗友希がいなくなったということは、私にとってJuice=Juiceの「核」が突然消失することであった。生物の世界ならば核が消滅した細胞は死ぬ。細胞質が均一になり、あっという間に溶けていく。突然おこったビックバンを私はなかなか受け入れることができなかった。
2021年3月のひなフェスでは、紗友希のパートを引き継ぐのに明らかにみな四苦八苦していた。『DOWN TOWN』の大サビで紗友希の見せ場として作られたパートを歌わざるをえなくなった朋子は「つらくてしかたない」という表情で目に涙をためていたし(音程を外さなかったのはさすが)、瑠々ちゃんはCHOICE&CHANCE最後の紗友希パートを伸ばしきることができなかった(あの声量であの音程を出してオリジナルのフェイクを入れろっていうのが無理筋なのだ)。
朋子は25歳を過ぎても残留し、Juice=Juiceの核は残った。他のメンバーもふんばって紗友希のパートを練習してきた。細胞は生き残った、それがこの卒コンでわかった。特に瑠々ちゃんが紗友希のパートを随所でこなしていて立派だった。半年で仕上げてきたんだね。あぁ、Juice=Juiceのそういうところが好き。「Juiceはこれからも続く」と感じることができる卒業コンサートだった。
佳林と紗友希と朋子がいなくなったいま、Juice=Juiceという女性アイドルユニットがいったいどんな存在であったのか、ゆっくりと考えながら私は帰路についた。新宿バルト9の11階から続く長い下り階段は、女性客のヒールがステップをたたく音であふれていた。
ここからは未来の話をしよう。
『DOWN TOWN』『プラスティック・ラブ』という新曲の流れを見るに、2021年のJuice=Juiceはシティポップ路線に舵を切るようだ。シティポップか……。うーん、事務所の偉い人の趣向があまりに強く、観客は二の次というか完全においてかれているように感じるけれど、まあいいか……。紗友希というアドリブのフェイクの女王と、朋子という唯一無二の妖艶な歌声を失ったJuice=Juiceが、従来のファンキーな大人の女性の恋愛路線を続けるのはむずかしいだろう。まだ時間がかかる。シティポップを歌うためならば、新メンバー3人の人選も納得がいく。特に江端妃咲ちゃん。初めて見た江端ちゃんは、輪郭も顔立ちも体型も手足の細さも「初代リカちゃん人形」そのものであった。今のリカちゃんではなく「初代」リカちゃんね。
初代リカちゃん
彼女のレトロでキッチュな、昭和のプラスティック人形のようなたたずまいと可愛らしさは唯一無二であり、確かに昭和シティポップおよび『プラスティック・ラブ』という楽曲という楽曲によく似合っていると思う。私にとっては新しい刺激に乏しく、あまりおもしろみがないけれど、あたたかく見守っていきたい。(2021/12/10)
※追記:
山下達郎氏が2023年7月9日にジャニー喜多川の児童性虐待問題について言及。この最後に「このような私の姿勢を忖度、あるいは長いものに巻かれているとそのように解釈されるのであれば、それでも構いません。きっとそういう方々には私の音楽は不要でしょう。」と発言した。なるほど、私には山下達郎氏の音楽は不要になったようだ。よって今後のJuice=Juiceでは彼の曲を歌わないでほしい。セットリストにも入れないでほしい。
山下氏のこの発言以降、私はJuice=Juiceのライブに足を運んでいない。彼の曲を聴きたくなくなってしまったからだ。わざわざ高い金を払って遠くまで足を運んで、悲しい気持ちになる必要はない。おうちで一人でJuiceの曲を聴くぶんには彼の曲を除外できるけれど、ライブではそうもいかない。流れる曲を選べない。だから私は7月9日以来、Juiceのライブに行く気力がしぼんでしまった。とても残念だ。
シティポップの世界的流行に乗りたいのならば、よその過去の有名曲にすがるのではなく、自分たちで新しい曲を作れ。私は事務所にそう言いたい。それが音楽事務所の役目ってもんでしょ、と思う。 (2023/09/13)
2020年 ねじ子の楽曲ランキング(前編)
※今更2020年の楽曲ランキングです。新型感染症流行に免じて許してほしい。
※一定期間たったら、執筆時の時系列に記事を移動させます。
1位 世界が君を必要とするときが来たんだ / オーイシマサヨシ
タカラトミーのロボットおもちゃ販促アニメ『アースグランナー』オープニング主題歌。作詞作曲はオーイシマサヨシさんです。オーイシさん、2017年の『ようこそジャパリパーク』につづいての個人的楽曲大賞となります。
1番Bメロの歌詞「痛いのは無理 めんどくさいのはイヤだ 平気なフリしてマジちびりそうさ ってちょちょっとまってよベイベー これって現実なの!?」が、個人防護具もないのに謎のウィルスにとつぜん対峙せざるをえなくなった2020年4月の自らの現状にぴったりとよりそっていたことが受賞の理由です。
ミュージック・ビデオは時折山※、じゃなかった岩舟山で撮影されております。「仮面ライダー」や「戦隊シリーズ」の撮影でつねづね使われている採掘場跡地です。『アースグランナー』の裏番組かつ、視聴者もおもちゃ売上も完全に食いあうライバル作品のまさに「聖地」といえる場所でそれはもう堂々と、オーイシさんがヒーローになりきっております。爆発を背に嬉々としてヒーローを演じるその姿は、たいへんほほえましいです。
※息子たちはルパパトっ子なので岩舟山のことを「時折山」と呼びます。ルパパト14話で幼稚園児たちが遠足に行こうとしていた場所であり、映画『ルパンレンジャーVSパトレンジャーVSキュウレンジャー』で最後の決戦場所として「明朝6時 時折山 怪盗BN団」と予告状に書かれていたあの場所です。彼らにとってこの山はーー関東近郊で本物の火薬を使った爆破撮影が唯一可能なのであろうあの山はーーいつまでたっても「時折山」なのです。さまざまな東映特撮番組で岩舟山がうつるたびに、彼らは「こんな危険な場所で遠足をするあの幼稚園はおかしい」と突っ込んでいます。いまでも律儀に。
さて、アニメ『アースグランナー』の内容はおもちゃ販促番組としてよく見るもので、特記すべきことはなかった。子ども達は早々に視聴から離脱してしまった。親がついでに見ている範囲としても、特に「引っかかり」を感じなかった。
おもちゃや販売促進や視聴環境もふくめた『アースグランナー』の私の所感は、以下の4つ。
①おもちゃの変身可動、造形のかっこよさ。これは本当に素晴らしい。
②新型コロナウィルスが直撃しても延期も再放送もせず、通常放送をつづけていた点。最高の評価に値すると思う。
③AmazonPrimeですぐに全話が見られること、YouTube見逃し配信の早さ。この二つはコロナウィルス流行下において非常に、非常に強かった。2021年の今、ネット配信が存在しないコンテンツは、幼稚園or保育園から中学校の子ども達にとって「存在しない」コンテンツである。ライダーや戦隊もこの姿勢を見習ってほしい、さもなければ子ども向け東映特撮おもちゃは死んでしまうであろう。
④既存の定番玩具(この場合はトミカ)との連携。
昨今のタカラトミーの児童向け玩具の販売力の強さは、以上の4点にあると思う。
2位 手を洗おう / パウ・パトロール
2020年はさまざまな「手洗いソング」が発表された。医療従事者として本当に本当にありがたい。「日本のみんな、手を洗ってくれてありがとう!みんなのおかげで私はまだ生きてるよ!本当にありがとう!!」って心の底から叫びたい。保証も強制もないのにステイ・ホームしてくれた地域住民の皆さんに、手を洗ってくれる皆さんに、今でもマスクをしてくれる皆さん全員に、大声でお礼を言いたい。これを当たり前だと思っちゃいけない。周囲への感謝は大切。とても大切。
そして私という一個人にとって、2020年もっとも口ずさんだ歌は、カナダのアニメ『パウ・パトロール』が作った『手を洗おう』であった。実用的な意味でもっとも役にたった一曲といえる。私はいまでも毎日、この曲を歌いながら子どもたちと一緒に手を洗っている。
日本語訳MVを出したタイミングの早さ、子どもにとっての歌いやすさ、適度な曲の長さ(手洗いは約20秒間、石けんの泡を皮膚につけた状態にしたい。そしてこれはとても長い。子どもたちにとってはダイオウグソクムシが餓死しそうなほど長い)、番組の最後のおまけ映像として今でも毎週流してくれる律儀さ。すべてが私の子どもたちにぴったりだった。そしてきっと、世界中の子どもたちにもぴったりだった。
子どもに手洗いをさせる(啓蒙する、といってもいい)歌としてもっとも大切なこと。それは「子ども自身が大好きなキャラクターである」ことだ。アニメ『パウ・パトロール』は2020年もっとも我が家で再生された番組であり、園児である息子の注意をもっとも引きつけ、私が休む時間をもっとも長く作ってくれた作品であった。
話が少し変わる。
私は2020年、戦隊もライダーもあまり楽しめなかった。特にコロナ中断から再開して以降、どちらの番組にも制作者と自分のあいだで価値観や倫理観の「ずれ」を認識する場面が多くなった。登場人物に対して「ああ、私は彼らにヒーロー性を見いだすことができない」と思う場面がたくさんあった。新型感染症の大流行で世の中が変わり、私自身も変わり、作品そのものも(撮影の中断と短縮によって)ストーリー展開を大きく変えざるをえなかったのだろう。だから、それに文句を言う気はない。ただ、作品と自分とのあいだで「英雄」に対する価値観があわなくなってしまった。
そんな中で私がヒーロー性を見いだせたのは『パウ・パトロール』と『ウルトラマンZ』と『ヒーリングっとプリキュア』の終盤の展開(2020年という時代に白い衣をまとって戦う少女たちがウィルスである敵と共存する終わりはありえない、根絶しかない)、『鬼滅の刃』の煉獄杏寿郎、そして早朝に再放送中の『暴れん坊将軍Ⅲ』であった。
パウ・パトロールは「戦隊もの」である。子どもたち、とくに2歳から4歳くらいまでの子どもたちは「戦隊もの」という「概念」が大好きである。私も大好きである。
「戦隊もの」という「概念」とは何か。それは、
①わかりやすく色分けされた複数の人間が
②それぞれの個性を生かし、得意な分野を合わせて「協力」することによって
③一人では絶対に勝てなかった強い相手を倒す
という物語の構造だとねじ子は思っている。これは石ノ森先生の偉大な発明である。
①色分けのおかげで、子ども、特に幼児前期(1~3歳くらいの低年齢)でも登場人物の区別をつけることができる。変身前の私服でも、メンバーは必ず自分の色をまとう。
②個性や特技。だれか一人、自分と似た性格や特技をもっていればいい。自分がなりきることができるキャラクターが見つかる。一人遊びを卒業した2~4歳くらいの児童が最も大好きな「象徴遊び」(いわゆる「なりきり」遊び)がしやすい。親は、敵やライバルキャラを演じればよい。
そして③である。協力することの大切さ、他者への思いやりを学べる物語が展開されるのだ。これは見事としか言いようがない構造であり、ねじ子は「20世紀でもっとも偉大な発明である」とさえ思っている。
①色分け ②役割分担 ③一人では乗り越えられない課題が提示され、いったんは負けるも、複数人で協力して課題を乗り越える という、石ノ森先生が発見した「概念」が下敷きになって生まれた作品は世界中に数えきれないほどある。スーパーマンに代表される、たった一人のスーパーヒーローが天才性と努力で敵にうち勝つ成長物語とは性質がまったくちがう。
「戦隊という概念」は世界にもそのままの形で通用している。パワーレンジャーは言うにおよばず、ベイマックスもそう、セーラームーンもそう、プリキュアもそう、メンバーカラー制度をもつアイドルグループもそう。そして『パウ・パトロール』はまさに「そう」なのだ。ちなみに『パウ・パトロール』は世界中のテレビで視聴率一位を取っているし、Netflixキッズ部門の再生回数において長期間トップを独走している状態である。
私は「戦隊もの」という「概念」が好きだ。だから何年も毎週欠かさず、戦隊ものを見ているのだ。仕事をし、家事をし、食事をつくって食べ、入浴して寝るという日々の生活において絶え間なく体を動かしていると、ふと「戦隊という概念」を補充したくなる。自分でもなぜかわからないけれど、補充したくてたまらなくなるのだ。これは禁断症状、医学的には離脱症状と言っていい。『美少女仮面ポワトリン』や『ナイルなトトメス』や『有言実行三姉妹シュシュトリアン』や『来来!キョンシーズ』を幼少期にあびて育った影響なのかもしれない。
そして2020年、アニメ『パウ・パトロール』はその役割をじゅうぶんに果たしてくれた。
それぞれに得意分野があり個性的な、きっちりと色分けされた服を着る犬たち。ポリスカーに乗る、かしこい実質リーダーの警察犬チェイス(青)。消防車にのる消防犬で、ちょっとおっちょこちょいだけど勇気があり、子どもたちが感情移入しやすいマーシャル(赤)。ヘリコプターに乗り、唯一空を飛ぶことができる雌犬スカイ(桃)。パワーブルドーザー乗りで関西弁、食いしん坊のブルドッグ、ラブル(まさにキレンジャーそのもののコメディリリーフ)。清掃車に乗るアイディアマンのロッキー(緑は少し軟弱な発明家、『ゴーカイジャー』と同じ)。ホバークラフトで水面移動が可能なズーマ(橙)。
まさに戦隊もの、まさにゴレンジャーである。三要素すべてが完璧にブレンドされている。そして主人公は、パウ・パトロールの司令官であるしっかりものの人間の少年ケント(10歳)。視聴者である子どもが、完全に自らをアイデンティファイできる存在なのだ。
様々な場所から集められた6匹の犬がいる。人々の助けを求める声を聞いた主人公の号令とともにそくざに基地に集まる。それぞれ得意分野のアイディアや知恵を出しあい、技術を発揮する。一人ではとうてい勝てない敵やどうにもできない災害も、全員で協力すれば必ず克服できる。命を救い、トラブルを解決し、人々の安全な暮らしを守る。これぞまさに平和を守る「戦隊」である。犬だけど。
今年の戦隊からは失われていた「戦隊ものという概念」が、『パウ・パトロール』にはあった。それはもうキラキラとまぶしいほどに満ちあふれていた。さらにジャッカー電撃隊が発明した第二の「戦隊概念」である「追加戦士」も登場するんだな。雪山救助に特化した白い雌犬・エベレストだ。最高の布陣である。
しかも!(ここから大声)『パウ・パトロール』には彼らに対抗する悪の戦隊6人組が登場するんだよ!!ライバール市長(いい名前だ)直結の、色分けされた衣を着る6匹の猫。その名も「ニャン・パトロール」だ!私はこれを見た瞬間いろめきだった。「VSだ!VSじゃないか!うそだろ?VS戦隊だよ!わーいわーい!私の大好きなVSだ!」と。これはもう『パウ・パトロール』は『ルパンレンジャーVSパトレンジャー』である、と言ってもいいんじゃないかな!?よくないよ!
ちなみに、パウ・パトロールの犬たちは人の言葉をしゃべる。なぜかペラペラとよくしゃべる。他の動物たちは人の言語をまったく話さない。ニャウ・パトロールの猫たちも非常によく訓練されているのだが、人の言葉を話さない。どうしてパウ・パトロールだけが人間と同じ知能を持ち、言語をつかうことができるのか?その理由は、最初から最後までまったく明かされない。作中の人間たちはどうしてそれを疑問に思わないのだろう。それも一切語られない。明らかに異常なのである。
それなのに、『パウ・パトロール』はリアリティ・ラインがしっかりしている。「なんで犬だけが人と同じアイデンティティと知能と言語をもっているの?世界観どうなってんだ?」などと疑問に思うのは野暮だ。だって大人である私も「私のところにもパウ・パトロールが助けに来てほしい!助けてパウ・パトロール!」と思ってしまうのだから。パウ・パトロールの「人助け」という正義の前に、そんなものは些細な問題なのだ。大人の視聴者にすらそう思わせるだけの力がパウ・パトロールにはある。パウッと解決。
2020年当時限定公開された映画『パウ・パトロール カーレース大作戦GO!GO!』も、奇想天外でありながらリアリティ・ラインがはっきりしていてわかりやすく、わくわくするカーチェイス・アクションの連続で、はっきりとした勧善懲悪かつ見応えのある成長物語だった。つまりは最高の脚本であった。主人公の犬の名前が「マーシャル」でありF1におけるメカニックの呼称と同じであることと、ルイス・ハミルトンそっくりのF1レーサーにもクスッときた。
2020年、キラメイジャーの録画をまったく再生しなくなってしまった次男は、一週間で5回くらいパウ・パトロールを見ている。母はさすがに1回で飽きるが、彼はお気に入りの回を複数回見る。それが子どもだ。親が子の興味をコントロールすることはできない。おそらく世界中のタブレットの中のNetflixで同じ現象が起きている。パウ・パトロールのおもちゃは今のところ店舗であまり売ってない。CMもほとんどない。コロナ不況が吹き荒れる中、母の財布は非常に助かっている。クリスマスにはDX日輪刀とスマホロトムと鬼滅のたまごっちと、いくつかの任天堂のゲームソフトがうちに届く。
3位 pray / 赤い公園
津野米咲さんの遺作。同時発売のシングル『オレンジ』をあわせて聴くと、津野さんの中に混在していたと思われる「陰と陽」の両方をかいま見ることができる。
小片リサちゃんがいなくなった10日後に、津野さんがいなくなってしまった。COVID-19流行という世界的にみても最悪だった2020年という一年間において、私が最も落ち込んだニュースは津野さんの取り返しがつかない極端な選択だった。
『pray』のMVを見ると「津野さんはこの作品を最後に旅立つことを、撮影当時から決めていたのではないだろうか」という気持ちになってしまう。実際はそうではないのだと思う。ふと、暗い森の中へ引きずり込まれてしまったのだろう。ふと通りすがった心の闇、死へのいざないに、突発的にのみこまれてしまったのだと思う。私がこれまで目にした、生命を絶つ選択をある日とつぜん取ってしまった症例の多くがそうであったように。
★★
ここからは私事である。
新型コロナウィルス感染症が流行っている。ステイホームしろ、と偉いひとたちは言う。家から出るな、他人に会うな、他人と話をするな、食事もするな、マスクを外すな、と言う。そして、ものすごくしっかりとそれを守ってくれる人達がたくさんいる。素直にありがたい、と思う。それと同時に「とてもつらいことを赤の他人に強制している」ことは、医者である私もわかっている。他人に無償で頼む範囲を、ゆうに超えていると思う。偉いひとたちの言うことを本当に律儀にぜんぶ守っていたら、ストレスが溜まりすぎて死んでしまうだろう、そんな人たちもたくさんいる。コロナウィルスを用心しすぎているゆえに鬱になってしまうほど感受性が高い人には「気にしすぎてはいけません、気晴らしを用意しましょう」「ネットやテレビは控えましょう、ニュースも感染者数も見る必要はありません」「三蜜を避けてたまには出かけましょう、その方がいいですよ」と伝えなければならない。
その一方で、「コロナは風邪だ」「コロナで死ぬのは自然淘汰だ」と公言し、あえてマスクもせず、手も洗わず、熱も測らず、大人数で会食し、大騒ぎしながら毎晩飲み歩いている人もいる。これはもう絶対に、ある一定数いる。そういう方々には、感染対策の具体的方法をゆっくりと時間をかけて説明しつづけ、そのうちの一つだけでも実行してもらう必要がある。
これは二元論ではない。感染対策の「お願い」を内面化しすぎて「守りすぎてしまう人」と「完全に意にかいさない、またはかえって反発する人」。どちらもある一定数の人間がおちいる状態であり、両方への対策が同時に必要になる。どちらかだけ、になってはだめだ。二元論に走ってはいけない。絶対にいけない。前者で暴走すると鬱になり(飲食・芸能に従事する人たちがたくさん旅立ってしまったし、医療従事者のメンタルもちぢに乱れている)、後者が暴走すると感染拡大に歯止めがきかなくなる。どちらも地獄へと続く道であり、患者さんは崖へ向かってがむしゃらに突進する馬車のようになってしまう。
「人によって対策やアドバイスを変える」これは臨床医療において普通に行われていることだ。それなのに、これをメディアや電波やインターネット回線に乗せて「一般論」として語ろうとすると、とたんにむずかしい。どちらの立場に立ってアドバイスをしても、逆の立場の人からの異論や反論が瞬時にあふれ出てくるのだ。SNSというメディア上においてその勢いは猛烈なものとなり、一気にあふれて一個人に押しよせる。それは津波である。私ならばとても立ってはいられない。結果、うかつなことも言えず黙りこみ、ふさぎこんでしまう人がさらに増える。
そういう意味では、尾見先生も忽那先生も西浦先生も、もちろん岩田先生も、彼らの発言はいつもそれぞれに「医学的に正しかった」と私は思っているし、彼らの立場において最大限言えることを精一杯伝えようとしてくれていた。それはかけがえのない大仕事であり、私の精神の安寧は彼らによって支えられていたんだな、と今でも思っている。
4位 だいスキRAP / みんなのリズム天国
2011年発売のゲーム『みんなのリズム天国』の中の一曲。
2020年4月、世界中の人々が一斉に軟禁された。何も悪いことなどしていないのにとつぜん受刑者になったようなものである。外に出られない。運動もできない。買い物も行きにくい。近所の公園に行くことすらもはばかられる。旅行も行けない。コンサートも演劇も開催されない。こんな状況では、もうゲームをするしかないじゃないか。多くの趣味を絶たれた2020年の私は、任天堂のおたくになるしか道がなかった。
思い返せば私は、ファミコンを買ってもらった小学生の頃から極めて浅い任天堂ライトユーザーであり、極めて浅いマリオのおたくであった。いや、おたくですらないな。ほどほどに楽しんでほどほどに時間を費やし、できるならばクリアまでやるけれど、クリアできなかったら自然にプレイ時間が減ってしまうような、こだわりや執着の少ないゲームユーザーだ。いわゆる「エンジョイ勢」である。SNSのプロフに書くなら「ポケモン図鑑コンプ勢/あつ森マイペース時間操作なし/リズム天国switch正座待期/推しは桜井政博」といったところか。実際の私はろくにSNSをやってないのだが。
私はステイホーム中にストレスなく子どもと一緒にやれるゲームとして押し入れからwiiUを引っぱり出し、『みんなのリズム天国』を始めた。すごくよかった。『リズム天国』シリーズは「ゴールド」が最高傑作だと思っていたが、「みんな」もすごくいいな。つんくさん天才だわ!
最新作「ザ・ベスト」ももちろん大好きなのだけれど、ストーリーがどうしても悲しくて、つらくなってしまう。ゲームの中で天国に行くことを求め、それが叶えられそうになった直後にまた俗世に落っこちてしまうチビリくんがつんく♂さんに見えてしまう。そして、本当にそのまま天国に行ってしまった任天堂の岩田聡社長のことを思わないではいられない。※考えてはいけないと思うのに、考えてしまう。リズムゲームに集中できない。あとハロメン(ナイスガールプロジェクトもハロメンとしてカウントしています)や未成年少女の曲が少ないのが悲しい。
※『リズム天国 ザ・ベスト』が発売されたとき、リズム天国の企画者であるつんくさんと、それを支えていた任天堂の岩田社長は、どちらもガンの闘病中であった。2人の対談も残っている。
社長が書面で訊く『リズム天国 ザ・ベスト+』
その後、岩田さんは胆管腫瘍で55歳の若さで逝去。つんくさんは声帯切除の手術後も制作をつづけ、リズム天国続編の意見収集をTwitter上でおこなっている。
というわけで、2020年ねじ子が最も多く聴いたハロプロの曲は『僕らの世代!/ナイスガールトレイニー』である。スタッフクレジットもリズムゲームになっているのは『リズム天国』シリーズの恒例サービス。
しかもゲームクリア後のゲームセレクト画面のBGMがずーっと『僕らの世代!(Instrumental)』なのである。パーフェクトを目指して頑張っていると数百回は聴くことになるのである。いやぁ、2020年は小片リサさんの年でしたね!他のハロヲタのみなさんも、きっとそうだったでしょう!
5位 アーバンけけ / とたけけ(あつまれどうぶつの森)
音源バージョン↓
ライブバージョン↓
ゲーム『あつまれどうぶつの森』には、すべての欲望を満たしてもらった。ステイホームの時期とゲームの発売日がぴったりと合ったことによる奇跡である。
旅行をしたい欲、海で泳ぎたい欲、南の島でのんびりしたい欲、釣りがしたい欲。天気のいい屋外で走り回って自然を感じたい欲望、ひなたぼっこしたい欲望、とつぜん降りだした雨にぬれたい欲望。友人が住む知らない土地を訪れてみたい、友人の家に集まって食事をしたい、誕生日を祝いたい、みんなでBBQがしたい。ウィンドーショッピングしたい、いろんな服を着てお出かけしたい、色ちがいのたくさんの家具を並べて吟味したい、つまりあらゆる物欲。そして、音楽ライブに行きたいという衝動。
2020年2月まで当たり前にあって、今では失われてしまった喜びを『あつ森』はすべて満たしてくれた。『あつ森』をプレイすると、あのときの閉塞した空気とガラガラの通勤電車、部屋にみちる次亜塩素酸のにおい(アルコールが手に入らなかったため、我が家ではドアノブとフェイスシールドを次亜塩素酸で消毒していました)を思い出す。それほどに『あつ森』というゲームは私のステイホーム生活を支えてくれた。
『あつ森』は動作中のサウンド・エフェクトもよかった。レンガの道をヒールで踏みしめる音、新雪をつぶす音、砂浜を踏みしめて足の指の間から砂がもれる音、芝生を駆けるスニーカーの音。そのすべてが、ステイホームでは決してえることのできない体感であった。これら「自然の与えてくれる五感」は、人が生きていくために必要な刺激であった。人が健全に生きていくために、周囲の環境からえられる五感は不可欠であると私は思い知った。拘禁状態ともいえるステイホームの状況下、『あつ森』というゲームの中で私はその音を何度も聴き、体にしみこませた。それらは私の脳を活性化させた。
というわけで私が今年最も愛聴したミュージシャンは「とたけけ」なのである。土曜の夜にアコースティック・ギターをもって私の島にふいと現れる、白いはだかの犬だ。彼はどんなジャンルの歌も歌う。アレンジの幅も広い。どんな悪天候の中でも屋外でライブしつづける心意気もいい。ライブとCDで音源がまったくちがうのもいい。ライブのときだけ「アオーン」っていうフェイクが入るのも最高だ。犬の遠吠え、とか言ってはいけない。あれはフェイクだ。そうだよ、こういうアドリブやフェイクや合いの手を聴くために、私はハロプロのライブに行っていたんだよ!COVID-19がはやる前は!
今の私にはもう本物のアイドルのライブに行くことができない。だから、右手に黄色く光る棒をもって友人の島に行き、アバターの仲間たちとバーチャルなライブを楽しむことができる、それだけでも嬉しかった。
アイドル好きとして『けけアイドル』は外せない。ウーハーの効いた値段の高いコンポを(ゲーム内で)買って、(ゲーム内の)自室のBGMとして『アーバンけけ』を流しながら(ゲーム内のアバターが)眠るのもたまらない。
後編に続く。(2021/11/30)
2019年 楽曲ランキング(後編)
(前編はこちら)
※この文章はCOVID-19流行前の2020年2月末までにほぼ9割を書いています。文章がまとっている時代の空気が明らかに現在と違いますが、2019年のランキングなので、あえてそのままにしています。
6位 お願いマッスル / 紗倉ひびき(ファイルーズあい) & 街雄鳴造(石川界人)
渋谷のまんだらけでルパンレンジャーVSパトレンジャーの中古玩具を探しながら店内BGMとして耳にし、一気にひき込まれた曲。古典的かつ普遍的な音楽との出会いである。その場で歌詞を検索し、『ダンベル何キロ持てる?』アニメ主題歌であることを知った。なんといっても主役二人の声優さんの掛け合いが素晴らしい。石川界人さんすごい。
三島由紀夫は小説の中で自らが感情移入する右翼軍人の主人公に「どんな時代になろうと、権力のもっとも深い実質は若者の筋肉だ。それを忘れるな。」と言わせていた。当時の私にはその意味がさっぱりわからなかった。でも今ならわかる。若者の衝動をもって筋肉――つまり接近戦で行われる一対一の突発的で避けきれない暴力――を使うことは、確かに人を畏怖させ、周囲の人間を萎縮させ、結果的に集団を動かしてしまう「力」になる。つまり権力になる。
一部の富裕層が若者や女性や貧困者の身分を下位で固定し、古くは小作人/現在日本ならば派遣社員や低賃金労働者として搾取し、その差を決して埋めず、格差をますます拡大・固定化しようとする時代において、肉体至上主義が台頭してくるのは必然である。つまり若い部下が尊厳を破壊された瞬間に、かっとなって暴力を使い、ひょろひょろでしょぼしょぼな老人の上司相手の肉体を一瞬で破壊したくなる衝動だ。映画『Mr.インクレディブル』冒頭のあれ。米国のマッチョイズムにもきっと似たような根幹があるのだろう。
自分よりも弱い相手だけ攻撃する(強い相手とは戦わない)人間はたくさんいる。「反撃の可能性がない」と判断した相手に対して、どんな失礼なことも平気で行う人間はいる。本当にたくさんいる。そういう奴らに舐められないために必要なのが「わかりやすい見た目の強さ」、つまり筋肉だ。というわけで筋肉至上主義が台頭してくるのは歴史の必然。「私も体を鍛えよう!」そう思った私は、自宅でNintendo Switch リングフィットトレーニングを始めた。ジムへ通う社交性は、ない。どこまでもインドア。
7位 やる気のない愛をThank you! / 吉本坂46
先ほど「メジャーボーイ」を知った同じスレッドの中で、「吉本坂2ndシングルのチームREDみたいなのをモー娘。がやって欲しかったよね」というコメントとともに紹介されていたゆえに聴いた曲。
中の人は全員吉本所属であり、他に本業がある。グループ名に数字と「坂」が付いている。作詞は秋元康である。もう清々しいほどに「企画もの」である。企画以外の何ものでもない。おそらく広告代理店主導。どの程度の期間やるのか、どの程度の手間と予算を割くつもりなのか、どの程度新しいアイディアを盛り込むか、そのすべてが「企画」で決まり「企画」で始まり「企画」で終わることは、火を見るより明らかである。はっきり言うと萎える。そこに芸術家のほとばしる衝動が発露することも、魂がこもることも期待しにくい。それでも、この曲はいい。このMVが好きだ。歌詞は薄目で見ないようにしている。カジキイエロー↑↑ことスパーダこと新撰組リアンこと榊原徹士くんがいることに、4周目の再生で気が付いた。
8位 朝日のように輝きたい / 眉村ちあき
眉村ちあきちゃんの即興曲の質の高さ、ライブにおける歌唱力、どう見ても孤高のシンガーソングライターであるのにも関わらずなぜか「女性アイドル」を自称してのびのびと活動する姿、全てが最高。いまさら私のような部外者が語るまでもないほど良い。新しいアルバムだって素晴らしかった。それでも、私が一番感情を揺さぶられたのは『朝日のように輝きたい』。深夜バラエティ番組『ゴッドタン』2019年9月21日の放送にて朝日奈央ちゃんのために作られた即興曲である。「何かやれ、何かやれ」というサビの歌詞が心に響く。
「具体的に」やるべき行動を提示することができる人って、実はそんなに多くない。具体的に「〇〇をやれ」って言えないんだよ。だってそう言っちゃったら、その結果の責任を自分が取らなくちゃいけないから。責任を取る勇気や決断力がある上司は実は非常に希有である。
何が受けて何が売れるかなんて、本当は誰にもわからない。そこで勝負できる独自のアイディアや自信のある人は少ない。そもそもそんなアイディアがあったら組織に所属せず独立してやる方が、今の日本ではてっとり早かったりする。
だから自分よりも若い人、自分よりも社会的地位が低い人に「何かやれ」と言う。何「を」やれ、とは言わない。丸投げである。組織の責任者であるにも関わらず「具体的に」何をやるか指示をしないのだ。そういう管理職は以前よりも増えているように私は感じている。
丸投げされた若者は窮地に陥り、とりあえず「何か」をやる。偉い人たちはただそれを「評価」する。「面白い」「使える」「使えない」「だめだこりゃ」などの評価。何も作り出さず、出来上がった作品をただ評価する。これは非常にたやすい。優越感さえ感じるだろう。その「何か」行われた事象について、責任を取る必要もない。だって具体的な指示をしていないのだから。「あいつが勝手にやった」と言える。責任を取らされるのは、その「何か」をすることに決めた若者である。偉い人はその「何か」を具体的にやれと指示したわけではないのだから、売れなくても面白くなくても炎上しても責任を逃れる(または逃れようとする)。「何か」をやらされた若者たちは、パニックになったり、炎上して社会的に抹殺されたり、トカゲの尻尾のように切られたり、何もできなかった自分に凹んだり、自分に才能がないと落ち込んでしまったりする。そんなことないのに。(ちなみに、それが奇跡的に当たった場合は「俺が育てた」と言い始めたり、自分の手柄にしたりする。)
会議において偉い人たちがただ「何かやれ」と言ってきたとき、それは「自分には今とくに新しいアイディアがない」と白状しているも同然の状態なのである。今ならわかる、私も歳をとったから。「具体的なアイディアが今のこの人には浮かんでいないのかもな」と思う。でも、世に出たばかりの若い頃はそうは思えなかった。ただ自らを責めるだろう。そうやって潰され、自信を失い、表舞台を去っていく作家志望の若者たちやハロプロの女の子たちを私はたくさん見てきた。彼女らのことを思い出し、私はテレビを見ながら泣いていた。朝日奈央ちゃんも泣いていたし、松丸アナも泣いていた。
若者たちはそうやって心を折られ、去っていく。創作の現場には(創作の現場であるにも関わらず)何も生み出せずアイディアのない年老いた権力者だけが残り、新商品を生み出せず、保守的な再生産品ばかりになって組織は立ち枯れていく。日本のいろんな社会に見られる縮図だと思う。
9位 Over “Quartzer” / Shuta Sueyoshi feat. ISSA
『仮面ライダージオウ』のテレビシリーズOP主題歌。AAAの末吉秀太さんとDA PUMPのISSAさんのコラボ。
『仮面ライダージオウ』のテレビシリーズは結局、文脈がよくわからないまま終わってしまった。シリーズ脚本の下山さんにとって2019年は大変な年であったと思う。「東映特撮の最大のライバルに成長したシンカリオンを意識しまくった結果、シンカリオンのシリーズ脚本の下山さんを連れてきたのかな?」といううがった見方をしてしまったほどである。私は意地が悪いな。下山さん、昨年は大変でしたね。シンカリオンの映画、サービス満点で最高によかったですよ。映画興行成績が思ったより振るわなかったとしても、それはあなたのせいではありません。だってシンカリオンの映画は見たいものが全部入ったサービス満点な最高の脚本だったから。TVシリーズが突然終わってしまったこと(そして需要がどこにも見当たらないオリンピックの特番が始まったこと)と、映画まで期間が半年あいたことが、視聴者の子供が離れた最大の要因だと私は思っています。
さて2019年8月、私は貴重な夏休みを一日潰してひとりでジオウの夏映画を見に行った。誰も私に付き合ってくれなかった。子どもも夫もすでに『ジオウ』という作品の物語に何かを期待していなかった。
結論として、この映画にはきちんとした物語があり「脈絡」があった。『ジオウ』でスタッフが本当にやりたかったのは、もしかしたら「これ」だったのかもしれない。TVの『仮面ライダージオウ』という物語には、結局のところ脈絡はなかった。私はなかったと思うし、あったと思う方はその筋を私に教えてほしい。『ジオウ』の結末を映画のようにしたかったのに、いろんな理由でそれができなかったのだとしたら(例:ウォズを悪役ライダーにできなかった)私は制作陣に同情する。映画の物語をTV本編でやらせてあげたかった。横やりがあったのかもしれないし、予算やスケジュールの都合もあったのかもしれない。わからない。わからないけれど、『ジオウ』の脚本をなんとか一年間成し遂げた下山さんと毛利さんには、あたたかいお風呂に入っておいしいごはんを食べてほしい。
ジオウの夏映画は私の大好きな「やけくその祭り」要素が満載で、とてもよかった。DA PUMPもよかった。一茶さん最高。メタフィクションも盛りだくさんで、あまりのテンションの高さと不条理さをゲラゲラ笑って楽しんだ。
特に秀逸だったのは長篠の戦いである。馬が一頭もいない。かわりに3人の人間による「運動会の騎馬」がいる。てっぺんに乗っている騎手は仮面ライダーである。「いけー!」と言いながら突き進んでいるのだ、「運動会の騎馬戦の騎馬」が。確かに騎馬ではある、騎馬ではあるが、まさかこれがあの有名な武田の騎馬隊なのだろうか。
織田軍の鉄砲隊も、もちろん存在しない。それどころか火縄銃は一丁も画面に写ってない。織田軍所属の仮面ライダーと、武田軍所属の仮面ライダーがそれぞれ巨大ロボを召喚し、乗り込み、小さい小川の狭い河原で戦っている。なんだこれ。こんな長篠の戦いを私は見たことがない。「ずば抜けた描写である」と言わざるをえない。
しかもその後のシリアスなシーンで主人公が「僕たちの知っている歴史って、後世の俺たちが勝手にイメージした話に過ぎないんじゃない?」という識者っぽい台詞を挟み込むのである。確かにそうだ。近年の研究では、三段構えの鉄砲隊は江戸時代の創作であり、実際は存在していなかったと言われている。武田の騎馬隊もそこまで多くなかったと言われているそうだ。本当の歴史では、武田騎馬隊に馬なんか一頭もいなかったのかもしれないし、銃だって一丁もなかったのかもしれないし、仮面ライダーが戦って勝敗を決めていたのかもしれない。現代の人間がそれを否定することは、決してできない。誰にもできない!「低予算で馬が用意できなかったんでしょ?」とか言ってはいけない。
「平成」生まれだけを吸い込むブラックホールといい、仮面ノリダーといい、平成額縁ライダーキック(そうとしか言いようがない)といい、どれもこれも2時間の映像をもたせるネタとして最高だった。でも、2時間「しか」もたないようにも思う。これをTVで1年間続けていたらどうなっていたんだろう?それはそれでキツいのかな?
10位 Keepin’ Faith /パトレン1号/朝加圭一郎(結木滉星)
さてここからはいきなり時間が戻り、2020年8月パンデミック後の世界線でこの文章を書いている。
2018年に発表の特撮番組のキャラクター・ソング。当時、私はこの曲にそこまでの思い入れはなかった。武道館の超英雄祭のトップバッターで初披露されたときも、「難しい曲だな!武道館公演の一番手でこんなに難易度が高い曲を歌うなんて結木くんは大変だ!」という感想しか持っていなかった。
当時の超英雄祭の映像。これを見ても分かるように、初披露においてはサビのオイ!くらいしか観客のコールは入っていない。
特撮ものの番組は、TV本編終了後に「ファイナルライブツアー」という名の全国をまわる興行ツアーをする。前半はヒーローショー、後半は番組主題歌やキャラクター・ソングの披露の合間にキャストのトークが入る二部構成だ。全国の劇場を回って、地方の子ども達に夢を届ける。キャストは子ども達から生の声援をもらう。この公演をもって役者たちは一年間続いたヒーローという役職から「卒業」する。ハロプロでいうところの「モーニング娘。コンサートツアー 2019春 ~○○○○卒業スペシャル~」と同じ構造だ。
https://natalie.mu/eiga/news/319317
キャラクター・ソングの披露は場所ごとに2~3人ずつ行われる。『Keepin’Faith』は浜松・福岡・大阪で合計7回披露された。その課程の中で「Keepin’ Faithのコールがすごいことになっている」という観客レポートを私はよく目にしていた。「圭ちゃんコールがだんだん増えている」と。私はそれを生で見ることは叶わなかったので(チケットは争奪戦であった)映像を楽しみにしていた。
2019年ファイナルライブツアーラスト公演のDVDに入っているこの曲を聴いて、私は腹を抱えて笑った。コールが進化してる!!!!しかもこれはハロヲタが入れたコールだ!私にはわかる!これ、ハロヲタのコールじゃねーか!ハロプロの文脈ですくすくと成長したコールだよ!
しかも、「ハロヲタのしわざだ」って絶対にばれないように、各会場に少しずつ紛れ混んでいただろう工藤のおたくたちが少しずつ丁寧に育てたコールだ。私にはわかる。
どこらへんをもってして「ハロプロのコールっぽい」と思うのか?詳細はめちゃくちゃ長くなるが、これから意を決して書く。「くだらねぇ」と思う方は読み飛ばしてくれて構わない。本当にくだらないので。
★★★★ここの部分執筆作業中(書けたらリンク貼ります)★★★★
このライブ映像を持って『Keepin’ Faith』は私の中で「最も魅力的なキャラクター・ソング」に一気に躍り出た。現場で育ったコール&レスポンスの持つ力である。この曲の作詞家であるSoflan Daichiさんがつばきファクトリーの新曲の歌詞を書く、と聞いて私は一人で納得の微笑みを浮かべている。さすがアップフロント!いいところに目を付ける!ハロヲタに受ける曲を作れる作詞家だって、一曲で見抜いたんでしょ?だから声をかけたんでしょ?さすがである。
ここからは余談だが(ずっと余談では?)私は「全然ハロプロじゃない人達の歌にたまたま居合わせたハロヲタが即興で入れるコール」が大好物なのだ。
※参照例
久住小春ちゃんが主演していた女児向けアニメ「きらりんレボリューション」のイベントに突如出てきた男子二人組・SHIPSに、初見にもかかわらず全力でコールを入れる皆さん。男子二人の名前の区別がいまいち付いていない状態でもメンバーコールを入れるおたくの皆さんが愛おしい。間違った名前をコールしている人もいる、推しジャンしてる人もいる、間奏のMIXが不発に終わっている(当時のハロプロではMIXが残存していたこともわかる)。
悲しいけれど、このような文化・このような現象が起こることはきっともうないだろう、という確信めいた予感が私の中にはある。
2020年8月現在、ハロヲタがコールできる現場は完全に失われてしまった。ヒーローショーで子供たちが声を出してヒーローを応援できる環境も、半永久的に奪われている。この2つがたまたま出会い、日本全国を回りながらゆっくりと時間をかけて成熟し、男性ヒーローのキャラクターソングに女性アイドルの客が集まり、アイドル文脈の応援コールがのってコール・アンド・レスポンスが育っていくという奇特な現象が起こることは、おそらくもう二度とない。それを語れる機会も、今しかない。それを語る人間も、きっと私しかいない。だから、いま書いた。ここまでお付き合いいただいた皆さま、どうもありがとうございました。
★★★★★★★★
以上です。即売会もできず楽曲のリリースがままならぬ中、2020年楽曲大賞選びはどれも困難を極めると思います。今のところ、私の中ではアニメ「アースグランナー」主題歌である『世界が君を必要とする時が来たんだ』がぶっちぎりの一位となる予定です。「痛いのは無理 めんどくさいのは嫌だ 平気な振りしてマジちびりそうさ てちょちょっとまってよベイビー これって現実なの!?」という歌詞が、個人防護具もないのに謎のウィルスに突然対峙せざるをえなくなった自らの現状にぴったりと寄り添いまくっていて、本当に困っています。私は世界を救うヒーローなんかになるのはまっぴらごめんです。自分と家族と周囲の知人と、自分の患者さんたちだけで手一杯ですから。(2020.9.30)
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