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医師兼漫画家 森皆ねじ子

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道重さゆみは女神である。この命題に関して私は驚くべき証明方法を見つけたがそれを書くには余白が狭すぎる。

道重さゆみは特別だったと思う。彼女ほど「100%かわいい女の子」とはどういうことかを自分の頭で必死考え、長期に渡って実行している人間はいない。彼女らの客である現代日本の独身男性にとって「最も理想的な女の子」とはいったい何か。100%かわいい女の子の条件を、自分の頭できっちりと考え、自分なりの偶像を11年間完璧に作り続けた。もちろん、それは彼女が生まれ持った美貌に加えて、緻密な戦略を立てられる賢い頭があるゆえに実現可能なことだ。世の中のたいていの女性はそこまでの美人に生まれやしないから、本気の直球勝負ができない。「こんな女の子も面白いでしょ?」「こんな女の子もありでしょ?」という変化球に逃げてしまう。でも、さゆは常にど真ん中ストレート。豪速球を全力で投げ続けている。つんく♂はオーディション時点で道重さゆみのことを「この子自身が作品。自分にとっても師匠」と断言していたけれども、その通りだと思う。

「最も理想的な女の子」を具体的に言えばそれは太らないことであり、かつ痩せすぎないことであり、黒髪ストレートロングで一切染色しないことであり、白い肌とキラキラした黒目をキープし続けることであり、日焼けしないことであり、肌を露出しないことであり、かつ必要な場面ではきちんと水着になることであり、異性の気配を徹底的に排除することであり、でも百合要素は適度に匂わせ、少女性と処女性(※決して本当に処女である必要はない)を体現することであり、私服に至るまで可愛いピンクの服を選ぶことであり、将来の仕事の幅を狭めるとわかっていてもキスシーンを拒むことであり、それをラジオとブログでは「ここだけの本音」として語ってチラリと素をのぞかせることであり、一定のファンをえこひいきしないことであり、どんなにひどい外見のファンをも決して差別しないことであり、かつ太い客はきっちり繋ぎ止め、ネットパトロールを欠かさないことで自らのイメージを細部までコントロールすることであり、何よりもモーニング娘。とそのファンが大切だと公言することであり、歌が下手でも努力する姿勢をきちんとみせることであり、かつそこまで高いスキルにはこだわらず(※歌の上手い下手はアイドルの人気を左右しない)、自分が守ってあげたいと思わせるような愛らしさをキープし、かつ誰のものにもならないことである。

これらはすべて、ひどくくだらないことだ。歴史の教科書には決して載らない種類の茶番である。こんなくだらないことにいつまでも若い女の子達をかかずりあわせてはいけない。彼女たちは人間であり、憲法でも定められた幸福になる権利がある。自由に恋愛する権利も、結婚する権利も、子供を産む権利もある。当たり前だ。ハロプロの女の子には全員幸せになってほしい。しかし、それらの権利と「商業アイドルである」という状態は、残念ながら相反することが多い。最も金を出す男性ファンは、そういう女性の現実主義に基づいた行動を一切望まないのだ。これはもう残念ながら「望まない」の一言に尽きる。私は女なのでそういう彼らの偏狭さにため息が出ることも多いが、どうにもならない。私は少数派の顧客であってメインスポンサーではないからだ。現実として、女性アイドルが自らの現実的幸福をつかみたいと願うならば、自らが作り上げた「異性のための完璧な女神像」をどこかで降りなければいけない。

それでもなんとなく、道重さゆみは一生そこから降りないような気がしていた。さゆだけは、おばあちゃんになっても「100%かわいい女の子」の新しい姿を作り続けてくれるような気がしていた。

「異性のための完璧な女神」とまではいかなくても、女に生まれた人間はある程度、「女らしい演技」を多かれ少なかれ要求される場面に立ち会う。アイドルや客商売の皆さんはその演技の得手不得手が如実に収入にあらわれるだろう。「いい男と結婚する」ことで人生の価値が決まると考えているタイプの女性にとっても、「いい女」をどの程度演じられるかは極めて重要な問題だ。そして、完璧な女神を演じ続けるのは精神的にとてもきつい。だって現実はトイレにも行くしウンコもするしニキビだってできるし鼻毛だって出るし、月経時は血まみれになるしイライラするし腹も痛くなるし、化粧した顔とスッピンは全然違うし、イケメン大好きだし、お金持ち大好きだし、セックスだってしたいし、特定のステディな誰かに守られると楽だし、子供もほしいし、お金もほしいし洋服もほしいし、髪の毛だってお化粧だっていろいろ冒険してみたいし、お菓子もいっぱい食べたいけど太りたくないし、寄る年波も感じるし、本当は自分だけが得すれば他人なんてどうだっていいし、頭もそれほどよくないし、努力はたいてい報われないのである。それでも、トイレすら行かなそうな「お人形さん」を求められるのだ。ネットとスマホが普及した現在では相互監視がさらに厳しくなり、24時間休みなくアイドルを演じ続けなければならない。きつい。普通は3年が限界である。でも道重さゆみは11年間、モーニング娘。が売れていた時期も落ちぶれた時期も再ブレイクと言われる今も、ずっと完璧に、まるで素で楽しんでいるかのように「100%かわいい女の子」であり続けている。バラエティ番組に一人で出るときは「毒舌ナルシスト」という変化球を意図して投げて知名度を上げ、かつグループのリーダーになればそれを封印して「滅私奉公」を演出することさえも、できる。あまりに確信的だ。自らの手で自在に偶像を操っている。その全知全能ぶりに神を見る人も多かった。彼女の作った「かわいいアイドル・道重さゆみ」はその手練手管の完璧さから、もはや「異性の奴隷」を飛び越えて同性をも納得させる100%かわいい女の子アイコンになった。

だからこそ道重さゆみは同業者の女性から羨望の目で見られ、憧憬の対象となり、神格化された。女性が女性であるがゆえに見舞われる様々なストレスやトラブルに疲労困憊しても、心の中の神棚に彼女をそっと据えて「さゆも頑張ってるんだから、私も頑張ろう」と思いながら毎日を乗り越えていた女性はそこそこ多かったと思う。

彼女がモーニング娘。をやめる、というのは、女神が人間になる宣言をするに等しい。人間宣言である。昭和天皇の人間宣言を、当時の多くの日本人はそう重く受け止めていなかったと聞く。「何を当たり前のことを言っているのか」とさえ、思っていたという。でも三島由紀夫はおおいに混乱していた。私も、さゆの人間宣言におおいに混乱している。「さゆってば最近ちょっと神格化されすぎてるよね~」と心の中で揶揄していた私でさえ、混乱している。

「かわいいままで卒業したい」という彼女の卒業理由はこれまた彼女のキャラクターとしてパーフェクトな回答であり、彼女からしか出てこない言葉だ。「無理矢理モーニング娘。を追い出されるのではなく、彼女が自ら去っていく決意をしたのだろう」とファンにもよくわかるコメントである。彼女が女神であるならば、彼女の言葉は天の声であるはずで、われわれ下々の者に許されるのはただ天の声を真摯に受けとめることだけ、のはずである。なのに私は混乱している。この文章も、冷静な他人から見たらひどく気持ち悪いものに仕上がってるとわかっているのに止められない。どうしようもない。彼女は彼女の親友の亀井絵里と同じように、私たちの前からいなくなってしまうのだろうか?本当に?フクちゃんや大森靖子さんは大丈夫なの?

混乱のまま、きっと私はいくつものコンサートに足を運び、『野菜一日これ一本』を象のように飲みながらも卒業を受け入れ、次のメンバーに思いを馳せていくのだろう。あー、うー、そうだな…。モーニング娘。12期は研修生ならリカコと船木ちゃんと大浦へろへろちゃん、さらにこのたびブログを開設した後藤真希ちゃんの電撃復帰で計4人がいいかな……。ごっちんのためならいつでも椅子あけて待ってるよぉ……。移動中はずーっとモンハン4Gやっててくれてかまわないからさぁ……。あ、そこ矢口のための席じゃないからね、君は座らないでくれる?(2014/5/24)

受容のプロセスはまだ第一段階

道重さゆみがモーニング娘。を卒業する。来るべき時が来た、と思う。長年ハロプロを見ていれば、これはむしろハロー!プロジェクト全体にとって「よい知らせ」であることもわかっている。さゆが卒業を発表できるということは、モーニング娘。12期オーディションに将来有望な少女が内定したということであり、つんく♂の病状に目処が立ったということであり、現在在籍している娘。メンバーの将来性にある程度確信を持てた、ということである。どれも素晴らしいことだ。わかっている。そう、これは予定されている通りの流れであり、あるべきものがあるべき場所にきっちりと収まっていくのを我々は静かに見守っているだけなのだ。わかっている。卒業と加入を断続的に行い続けるのがモーニング娘。だ。私もそのシステムを心の底から愛している。期間が限定されているからこそ、輝かしい未来を持った美少女たちが、我々のくだらない妄想茶番劇にお付き合いしてくれるのだ。わかってる。

でも、私の胸はひどく重く苦しい。どうしていいかわからない。鉛を無理やり飲まされたような、腹にずしんと重く沈んだ物体を消化することができない。実験室のラットのように意味なく部屋中を歩き回ってしまう。気を抜くと「さゆ、ちゃゆ、ちゃゆうううう……。やめないで、おねがいだよ、やめないでよ、私をおいていかないでよ。私は明日から一体どうして生きていけばいいんだよ。私にはまだまださゆが必要なんだよ。あなたのいるモーニング娘。を、あなたの歌を、あなたという作品を、まだまだ見ていたいんだよ」と呟きながら床に崩れ落ちてしまう。この私が、福田明日香から始まるすべてのハロメンの卒業と脱退を見てきたこの私が、さゆの卒業発表動画をいまだに見ることができない。ニュースを再生できない。怖い。怖いんだよ。さゆの美しい唇から「モーニング娘。を卒業する」という言葉が出てくるのを見たくない。それを聞いて崩れ落ちるであろうフクちゃんや工藤を見たくない。あ、でも鞘師が嘘泣きしてくれてたらそれはすげぇ見たいけど。4月の末日に雨のサンシャイン大通りを「さゆ、ちゃゆ、ちゃゆうううううううううう。もっとさゆを生で見ておくんだった。私にはいくらでもその機会があったのに。なんでもっと現場に行かなかったんだ。私は馬鹿だ。そうだ、もう死のう。いやここで死んでも意味はないな。今からでも、できるだけ多くのコンサートに行って、さゆへの愛を叫ぼう。そして死のう。いや違った、これからもフクちゃんや香音や鞘師や生田を見守ってあげないと。あぁ、みんな愛しいよ。でも今はこのまま足元から水たまりに溶けて消えてなくなっちゃいたい気分だよ」と独りごちながら下を向いて歩くおばちゃんを目撃した方がいたら、それは私です。あまりに強い愛と、愛する対象から解離した自らの現実を自覚したとき、人は死を願う。愛情や萌えって実はとても死に近い感情だと思う。とても好きな人と安全な環境で一度限りのセックスをしたあととか、コミケで特殊な趣味の本を大量に買いあさったあととか、最高に幸せだけど最高に死にたくなるもんな。ねじ子はまた一つ大人になったよ。

患者さんが死を迎える際の対応は「終末期医療」と呼ばれ、臨床医療の一大ジャンルである。末期がんなどで「ある程度」事前に予告されている死を患者さんが受け入れていくプロセスとして、5つの段階があると言われている。大げさに聞こえるかもしれないが、私は今まさにそのまっただ中にいる。

第1段階 は「否認」。大きな衝撃をうけて現実を否定する。「さゆが卒業?そんなはずはない」と否定し、自らにとって都合の悪い情報を受け入れなくなる。今の私だ。

次に第2段階 「怒り」が来る。「どうしてさゆはこんなに早く卒業してしまうんだ。モーニング娘。のことが大事じゃないのか。あんなにグループへの愛を語っていたのに、あれはすべて嘘だったのか。さゆ本人の意思であったとしても、周囲は全力で止めるべきだった。今さゆを卒業させるなんて、つんく♂と糞事務所はいったい何を考えているんだ」というような、筋違いの怒りを筋違いの方向にぶつける。

次に第3段階 「取引」。「これからはCDもちゃんと買うし、グッズも買うし、コンサートも皆勤するし、署名活動でも何でもするから、さゆの卒業だけは取り消してくださいお願いします糞事務所様」というような取引を心の中で試みる。絶対的存在との心の中での対話である。普通は神様や仏様との取引だけれど、この場合はさゆそのものやつんく♂や事務所になる。

次に第4段階 「抑うつ」。取引はたいてい徒労に終わり、運命は動かない。絶望して無気力になり、何も手につかなくなる。

そして第4段階と平行して徐々に第5段階の「受容」がやってきて、静かに運命を受け入れる心情になっていく。私もきっと、最終的には安らかにさゆの卒業を受け入れる、はずである。突然すべてを悟ったように解脱したり(アイドルヲタ卒業)、一縷の希望にすがったり(そうだ!きっとプラチナモーニング娘。が結成されて、さゆはそこに入るんだ!)、勝手に輪廻転生する(若いメンバーに乗り換える。これを業界用語で「推し変」と呼ぶ)人もいるだろう。

私はまだまだ受容の第1段階である。第5段階まで遠いなぁ。どうしよ。「さゆの姿をひと目見れば気持ちが落ち着くかも…」と思ったけれど、ゴールデンウィークのモーニング娘。中野サンプラザ公演はまったくチケットが取れなかった。それならばと、おへその国の入国ビザことハロプロ研修生実力診断テストのチケットを取ろうと思ったら、そちらも完売だし。嬉しいけど、困るよ。ガンガン当日券が出ていた頃の中野サンプラザが恋しい。

やはりここはオタクらしく、文章を書くことで気持ちを昇華するべきなのだと思う。次のエントリーではリハビリを兼ねて、道重さゆみの天才性と特別性について書こうと思います。(2014/5/8)

ねじ子の勝手に2013年日本オタク大賞

第1位 ダンボール戦記W

最高に面白かった。「子供のおもちゃを使って世界征服をたくらむ大の大人 VS それを阻む子供たち(絶対正義)」という古典的コロコロコミック展開でありながら、全然トンデモじゃなく、非常にしっかりした脚本のSFロボットアニメだった。『ダンボール戦記』シリーズはタイトルで非常に損をしている。ダンボールはほとんど本筋に関係ない。純粋なロボットアニメだ。初代の『ダンボール戦記』は完成度でいったらそれはもう初代ガンダムに匹敵するほどの出来だった。「なんでこれをガンダムAGEでやれなかったんだレベルファイブさんよ?あぁん?」と言いたくなるほどの名作だ。『ダンボール戦記W』はその文脈で言えばZガンダムで、Zガンダム同様にとてもよくできた続編だった。

第2位 帰ってきた特命戦隊ゴーバスターズvs動物戦隊ゴーバスターズ

『特命戦隊ゴーバスターズ』はコンピュータの暴走によって研究センターが施設ごと「どこかに」飛ばされ、その跡地に取り残された孤児たちがヒーローになって戦う物語である。しかも彼らは新エネルギー「エネトロン」を守るために戦っている。明らかに、震災で親が死んだり原発事故で生活が一変してしまった、リアルな子供たちのための物語だ。『ゴーバスターズ』のTV本編は、これまでの戦隊シリーズの「お約束」――派手な変身ポーズや名乗りやタイトル連呼や敵の唐突な巨大化など――を徹底的に排除したシリアスな作品だった。今回取り上げる『帰ってきた特命戦隊ゴーバスターズvs動物戦隊ゴーバスターズ』は本編完結後のVシネマである。要するにおまけね。「暴走事故がなかった」場合の、パラレル・ワールドが舞台だ。

パラレル・ワールドには「動物戦隊ゴーバスターズ」という名前の戦隊がいる。彼らの物語『動物戦隊ゴーバスターズ』は、これまでの我慢を爆発させるかのようにベタな伝統的様式美が立て続けに披露される。これが短い時間ながら、非常によく出来ている。メタ・フィクションも盛りだくさんだ。ひょっとしたら『特命戦隊ゴーバスターズ』のシリアスな描写すべてが、このVシネマで大胆にベタとギャグをやるための伏線だったのかもしれないと思うほどである。

『特命戦隊ゴーバスターズ』は震災で親がいなくなった子供たちの物語であるがゆえに、終始シビアで現実的だった。行方不明になった家族は全員帰って来ず、死者は決して生き返らず、新エネルギーは非常に価値が高く、常に敵に狙われ奪われ続ける。孤児である主人公たちは、生き残った仲間とともに日常を守ることを決意しながら物語は終わる。それに対して『動物戦隊ゴーバスターズ』は、地震と津波が起こらなかった場合の未来、エネルギー問題を抱えこまないですんでいたはずの日本の子供たちの脳天気で明るい未来の姿なのである。お約束通りの日常が続いていたはずの、3年前の3月11日に私たちの前から消え去った未来なのである。そう思うと一段深く考えることができる物語であり、恐ろしいまでの対比である。

まぁそんなことはつゆ知らず、ちゃんと明るいお祭り映画になっているところがまたよい。脚本の下山健人さんは最近戦隊シリーズで名前を見ないと思ったら、週刊少年ジャンプで新しいサッカー漫画の原作をやっていた。頑張って下さい。

第3位 仮面ライダー×仮面ライダーMOVIE大戦アルティメイタム

坂本監督最高。浦沢脚本最高。ポワトリン最高。真野ちゃん最高。KABAちゃん最高。弦太郎が生身でくり出すパルクール、変身前の役者をふんだんに使ったアクション、ぶっとんだギャグを織り交ぜながらも心に響く浦沢脚本。文句なしだ。

なによりポワトリンだよポワトリン。最近の仮面ライダー・戦隊ものの映画は、父親世代を取り込むために昔のヒーローをじゃんじゃん出してくる。そしてついに母親世代をも狙ってきた。そう、ポワトリンである。ねじ子は『美少女仮面ポワトリン』の直球世代なのだ。『美少女戦士セーラームーン』のアニメが始まったときに「ポワトリンをパクるんじゃねぇよ!ちくしょう!」と子供らしく憤ったくらい直球世代である(もちろんそんなことを言いながら後にセーラームーンにもきっちりはまった)。

冴えないOLの女の子・上村優が、妄想の中だけでも街中の人に愛される強いヒロインになりたいと願い、アンダーワールドを作りだしてポワトリンに変身する。そんな彼女の目を覚ますために、彼女のアンダーワールドに仮面ライダーウィザードがやってくる。そしてこんなことを言う。

上村優「アンダーワールドで世界を守るヒーローになりたいって思って、何が悪いのよ!」
ウィザード「大切なのは現実なんだ」

なんてこと言うのよウィザード!そりゃあんたは現実に帰っても、押しも押されぬヒーロー様だろうけどね!私はしがないおばちゃんでしかないのよ!目覚めてもいいことなんかひとつもないの!キー!

ねじ子も小学生のころは本気でポワトリンになれると思っていたよ。中学生のころはセーラーマーズになれると信じていた。高校は湘北高校に入って流川楓親衛隊になるはずだった。浪人生のころは医学部に入りたいと願い、医学部に入ってからは医者と物書きになることを夢みていた。そして本当に医者と物書きになった現在の私の夢、それはモーニング娘。に加入することであり、プリキュアになることであり、ポケモンマスターになることである。どうだ、30年かけてきれいに一周しただろう?初心忘るるべからずである。ちょっと違うか。

ねじ子もアンダーワールドの中で毎日モーニング娘。になってるよ。それがいけないことなの?なんで現実に帰らなくちゃいけないの?現実を見ろってみんな言うけどさ、虚構の中にいるままで死ぬのも一つの理想だよね?太宰治だって三島由紀夫だってそうだったじゃない。ウィザードに説教されてねじ子、映画館でちょっと泣いちゃったよ。最後に明かされるポワトリンの正体もよかった。

第4位 劇場版銀魂 完結篇 万事屋よ永遠なれ

公開当時にここの記事で紹介した。以下再録。

バック・トゥ・ザ・フューチャーの1・2・3をまとめて見たような、または小林靖子が得意とするタイム・パラドックスを用いた仮面ライダーのオールスター映画を見ているような、そんな充実感だった。

①人気のキャラをすべて出し、見せ場も作る
②でも主要キャラは誰も死なせない、なぜなら
③本筋のストーリーに決定的な影響を及ぼす展開は御法度だから。
④でもハラハラドキドキするストーリーと派手なバトルは必須で、
⑤(ヒットした場合に備えて)必ず続編を作れるようにしておく。

以上の要素を娯楽映画が満たそうとすると、どんな作品もオールライダー映画の如くならざるを得ないのだろう。

それでも目を引く要素はいっぱいあった。歴史を変えるために未来からやって来たキャラクター達が戦ってタイム・パラドックスにより消滅する、という設定自体はよく見るが、あんな消え方は初めて見たこと。『完結篇』と銘打ちながら、前日譚としても解釈できること。この映画のキーワードは三位一体で、入場者特典も三位一体フィルムだ。万事屋は銀時と新八と神楽で三位一体、真撰組は近藤と土方と沖田で三位一体、攘夷は桂と高杉と坂本で三位一体。その万事屋と真撰組と攘夷も、拮抗組織として三位一体。そして銀魂そのものもギャグとSFとチャンバラ・アクションの三位一体で、どれが欠けてもダメなこと。非常によくできているなぁ。まぁねじ子の隣で見ていた見ず知らずの男子高校生は映画が終わった瞬間に「完結してねぇじゃねえか!ふざけんなよ!だまされた!」と憤っていたけれど。そんなことはもういいのさ。

あ、一言だけ言わせてくれ。変な病気にかかったと思ったら、5年間も一人で放浪してないでさっさと病院に来てね!たとえ現代医学では治らない病気だとわかっていても、絶対に来てね!「どっからその病気もらってきた!この疫病神!」とか言ったりしないからさ!感染症において「最初の一人」「最初の患者」ってすげぇ貴重な情報なのよ。よろしくお願いします。

第5位 ジュエルペットハッピネスでした。新番組『レディ ジュエルペット』も楽しみにしています。オープニングとエンディングの曲が新しい曲でさえあれば、それ以上はもう何も文句は言いません。(2014.3.13)